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ギターはアンドロジナス

2022年5月13日 (金) 20:41

音楽のはなし

スピッツが好きだ。父が好きだったので、そもそもバンドとは何なのかを知るよりもっと前から、私はスピッツが好きだった。なおかつ「スピッツが好きじゃない人なんかおらんやろ、老若男女全員全曲歌えるはず」と思いこんで生きてきたから、大人になると意外にも「チェリーと空も飛べるはずしか知らない」みたいな人が多くてびっくりしている。よく考えたら活動期間30年越えで一度も休止せず、オリジナルアルバムを16枚も出しているバンドの曲を、老若男女全員全曲歌えるはずがなかった。そりゃそうだ。

私が初めて聞いたスピッツの曲は、多くの人と同じように「ロビンソン」だったと思う。「チェリー」はジャケットが切手をたくさん貼ったみたいなカラフルなビジュアルで、カップリングが「バニーガール」だったことも、よく覚えている。「運命の人」が好きだった。
Mステに出演したとき、初めて写真ではない、動いて話し、演奏するスピッツを観た。テッちゃんはツノのついたバイキングみたいな帽子をかぶって、サングラスをかけていた。私は全体的に「なにこれ」と思った記憶がある。なんか「これ、人間がやってたんか」みたいな感じ。いや人間がやってるがな、そらそうやろ。このときの感覚・記憶について、未だにうまく言語化できない。同じ手触りの感情を、以来一度も感じていないので、似た感情についても話せない。

小学5年生のころ、ベストアルバム(RECYCLE Greatest Hits of SPITZ)が発売され、父が買ってきたそれを、繰り返し聞いた。のちに、このベストアルバムはレコード会社が勝手に発売を決めた「実質非公式盤」であることを知るが、今思うとこれに「リサイクル」と名付けるセンス、いいよね。ふふふ、てなるね。タイトルは本人たちが付けたんでしょ?違うんかな。

中学3年生のころ、秋に部活を引退すると、私は人生で初めて「めっちゃくちゃ暇」になり、毎日吐くほど退屈で、手持無沙汰で、教室にいるとそんな自分の異質さが際立つようで(そういう自意識過剰さも嫌だったし)、いつも所在なかった。友だちがいなかったわけでも、いじめられていたわけでもないのに、あのころの「無」といったらなかった。たった半年ほどのことだったのに、今思い返してもゾッとするほど長かった。退屈で空虚で、何もすることがなく、すべきことも、したいこともないのに、毎日学校に行くことだけは決まっているのが不可解で、かと言ってサボるほどの理由も見つけられず、ずっと気が狂いそうだった。
私は、近所のレンタルビデオ屋(ビデオ合衆国、という名の店、今はもうない)でスピッツのアルバムを片っ端から借り、それを聴くことと、衛星放送を録画した映画「アメリ」を繰り返し観ること、それから学校の図書室で借りた「13歳の黙示録(宗田理 著)」を繰り返し読むことによってどうにか正気を保っていた。いや、正気を保てていたかどうかは自信がない、全然余裕で狂ってた気もする。ははは。

借りてきたアルバムはどれもMDに録音し、制服の袖から出した片耳分のイヤフォンで何度も何度も聴き、歌詞は手書きでノートに写した。レンタル期間が終わるまでの1週間は毎日ブックレットを持ち歩き、学校にいる間ずっとそれをA6サイズのノートに書き写して過ごした。コンビニに行けばコピー機くらい使えたし、家のファックスには印刷機能もあったのに、なぜ手書きで写す必要があったのか。わけわからんな~ほんまに暇やってんな~!などと思っていたけど、最近ようやくわかった。あれは、宗教だったのだ。吐くほど退屈で所在なかったあの頃の私が、どうにか息をしていられたのはスピッツがいたからだ。スピッツはあのとき間違いなく私の神様で、ブックレットに並ぶ歌詞は教典そのものだった。教徒が教典をコンビニでコピーするはずないよ、自分の手で書き写すに決まってるやん。

スピッツは神様のくせに、私に何かを説いたり、答えを提示したり、発明を声高に発表したりしないところが好きで、そこが今もずっと好きだ。
歌詞は意味が分かりそうで分からない。考察して楽しむ人も多いようだが、私は「何言うてるか全然分からんな~」とか「分かる気がするけどやっぱりわからんな~」とか言ってそのまま置いておくのが好きだ。分からないことを考えるのは楽しいし、分からないのに好きなのはもっと楽しいことだ。恋に似ている。何も分からない私も、ムエタイの女の子みたいな蹴りを食らったり、羊の夜をビールで洗ったり、日曜日はバスの揺れ方で人生の意味が分かったりするし、愛はコンビニでも買えるけどもう少し探す。社会はきまじめで少しサディスティックだが、その手を振りほどいて王様は裸です!と叫びたい夜もある。
マサムネは情緒ある魅力的な声で、歌だってもちろん上手だけど、ドヤ顔で歌い上げたりはしないし、歌唱力を見せつけるようなことには全然興味がなさそうだ。

「14歳の時に聴いていたものを、人は生涯聴き続けるんじゃないか、当時俺が聴いてたのは奥田民生」と言ったのは後藤正文だが、確かに私は生涯スピッツを聴き続けるような気がしている。
なぜ今日急にスピッツの話をしているかというと、例年通りのペースなら今年はアルバムが出る年だからだ。12枚目のアルバム「さざなみCD」以降、スピッツは3年に一度のペースで、フルアルバムをリリースしている。たのしみだな。

まぁ今のところ何の発表もないので「たのしみだな」はおかしいが。
つーか3年(実質2年くらいなのか?)でフルアルバム出せるだけの曲が十数曲作れるのすごいなあ。

この夜は台無しに

2022年1月28日 (金) 22:32

音楽のはなし

アナログフィッシュのベース・ボーカルである佐々木健太郎さんが大阪のFM802にご出演されたので、その放送をradikoで聞いた。先月バンドのあたらしいアルバム「SNS」が発売されたので、その“全曲解説”だ。全曲解説なんて、めずらしいな。

ラジオの中のいちコーナーとして健ちゃんがひとりで話すのだが、本人の「いかにも用意した原稿を読み上げていますよ」という感じと「でもちゃんと気持ちを込めて読み上げるぞ」という意気込みの両方を感じて、すごくよかった。健ちゃんらしいな、と思ったからだ。

健ちゃんはライブなどでは比較的自由奔放(に見える)な振る舞いを見せる人だし、歌声もソウルフルでファンキーな印象があるので、思いつきで行動するアドリブタイプの人かと思いがちだが、実際は「ここで腕を振り上げようと思って家で練習してきた」とか「ライブの前の晩にイメトレをする」、「お客さんがいるのを想像して、コール&レスポンスの練習をする」とか言っているので、わりとちゃんと準備をする人なんだと思う。
The La’sの曲をライブでカバーしたときも、カタカナで「デーシーゴー(※There she goes)」と歌詞を手書きした紙を用意し、それを足元に置いてカンペにしていた。

私は健ちゃんのこういうところがとても好きだ。お客さんに楽しんでほしくて、そのために自分に持てる力を発揮したくて、でもだからこそちゃんと用意していくぞ!準備万端でやるぞ!という振る舞いがすごく好きだし、にも関わらずずっと“ハート”とか“心”とかを取り出して見せてくれるような性質の人で居続けていることが、とても良いなと思う。まぶしい人だ。

全曲解説は内容もすごくおもしろかった。パーソナリティーの土井コマキさんも言っていたけど、こんなふうに自分の言葉で、自分のことだけじゃなく「下岡晃というシンガーソングライター」について話す佐々木健太郎は初めてだったのでは、と思う。私はもちろん下岡晃本人ではないし、そもそも全然関係ない人間なのに、なんかうれしい。
健ちゃんと下岡晃は別の人間なんだから当たり前だけど、10代からずっと友だちで、20年一緒にバンドをやっていても、健ちゃんには健ちゃんだけの「下岡晃観」があるのだ、と思うとうれしい。逆もまた然りなんだろう。
インタビューとかでもこのあたりをあまり突っ込んで聞く人おらんかったんちゃうかな。私が聞き手だったら佐々木健太郎に向かって「下岡晃というシンガーソングライターについてどう思いますか?」なんて聞かんもんな。質問がざっくりしすぎてるし、そう聞かれて出てくる言葉と「アルバムの全曲について解説してください」って言われて出てくる言葉とは、たぶん違うんじゃないかと思う。
「ロックバンドが歌詞に“居酒屋”って使うの?と思ってびっくりした」というようなことを言っていたのもよかった。この人は自分たちがロックバンドであると認識し、そのことに矜持があり、そして自分のど真ん中に今もなお“ロック”が燦然と刺さっているのだろうな、と思った。あぁすてきだな。かっこいいね。
あと「リリックがちょっとパーソナルすぎるかなと思って、ソロに回そうかとも思ったんですけど」と言っていたのも興味深かった。どうやって振り分けてるのか、聞いてみたかったから。

最近は「音楽に解説とかいい、説明しないで、要らない、そっとしておいてくれ」と思うことが多いから、聞こうかどうかちょっと迷ったけど、聞いてみてよかった。

蕎麦には/ねぎ/そしてわさび

2021年12月14日 (火) 22:02

音楽のはなし

アナログフィッシュの新しいアルバム、その名も「SNS」が発売された。今そのタイトルなの、今2021年なんだが、今なのか、今なんだね、なるほどわかった。
CDの帯には「たとえば ストレス/ない/生活」とある。ほほぅなるほど。わかった。

アルバムは聴く前から知っていたが、めちゃくちゃ良い。超良い。何周聴いてもずっと良い。
なぜ「聴く前から知っていた」かと言うと、私は前回のアルバムが出た後も可能な限りライブへ足を運び、配信ライブを観て、ファンクラブ会員限定の生配信コンテンツなどを観て、その中で披露されてきたいくつかの新曲を、聴いてきたからだ。彼らの曲は聴くたびにアレンジや歌詞が変わるし、これまでの経験上「そのままレコーディングされることはない」と知っているので、ライブで新曲を演奏されるとやや緊張する。まばたきするのも惜しいくらいだ、ぜったいちゃんと聴きたい。

心斎橋のジャニスで聴いた「うつくしいほし」、同じ日に「U.S.O」を聴いたと思う。佐々木健太郎・下岡晃、両者ともの新曲があまりにかっこいいのでうれしくてお祝いしたくなり、私は帰り道にお寿司屋へ行き、緑茶ハイでひとり乾杯した。しまあじがおいしかった。

「Yakisoba」を聴いたのは配信ライブだ。私は開始直前まで昼寝をしていて、目が覚めたらお腹がすいていて、だから焼きそばを作って食べて、そのあとだった。「うちに帰ったら焼きそばを食べよう 3食入りの食べ慣れたやつを」という歌い出しだったから、びっくりした。私が食べ慣れてる3食入りの焼きそばはマルちゃんのやつなんだが、下岡晃も同じだろうか。
私はこういうミニマルでシンプルな、やさしくて少しさみしい曲が好きだ。私が思う「孤独」の形と似ている気がする。なんでこんな曲が書けるんだろう、私が作った曲ってことにならないかな。だめですか。そこをなんとか。

「Is It Too Late?」を初めて聴いたのはいつだっただろうか。ライブでは4~5回ほど聴いたと思う。徐々に確立されていく彼らのコーラスと、その過程を聴けることは、ファンとしてほんとうに幸せなことだ。

7曲目に収録されている下岡晃の曲「さわらないでいい」をCDで再生し、初めて聴いたとき、臓器が全部一旦止まったような感覚がした。なんだこの曲は。すごい。かんべんしてくれ。え、これどっかのライブでやったのかな?一回聴いたことあるような気もしてきた。いや気のせいかもしれん。
まず、私はこれが何の曲なのかわからない。わからないのが良い。あなたが歌う「毒がある」という「その棘」は、何のことだ、でも私は「さわらなくていい」と言われている。なぜ「毒がある」と知っているの。触ったのか。触った人を見たのか。何の歌だ。全然わからない、でもわからなくて良い。歌詞なんかわからなくて良い。
やさしくされてる、と思う。最近の下岡晃の曲、すごい「まもられてるな」と感じる。理由はわからない。でも「無理にはなさなくていい この沈黙はいやじゃないから 今はしゃべらなくていい」って、すごく、やさしくされていませんか。そんなの人に言われたことないし、人に言ったこともないわ、そうだよ、言ったことない。私は「無理に話さなくて良い、この沈黙は嫌じゃない」と、人に言ったことがありません。思ったことはあるけど、でも言ってみてもいいのかもしれない。なんつー曲だ、うおお、すごい、かんべんしてくれ。

「うつくしいほし」はライブで聴くとかなり切迫感がある。積み重ねるようなリズムのAメロから「とおくからみればうつくしい」と繰り返すサビ。喉元にナイフを突きつけているような切実さ。下岡晃のこういう曲を聴くとき、私はちゃんと聞こえているのに耳が遠くなったような、シーンとした気持ちになる。手も足も全く動かなくなるし、髪の生え際がざわざわ、後頭部のあたりがびりびりする。なんて、かっこいい、きょくだ。
レコーディングされた「うつくしいほし」は、ライブで聴いたよりもずっと、やさしい・やわらかい印象を受けた。でも、どっちも好きだな。
あの喉元ナイフバージョンはまた、ライブでは聴けるんだろうか(※そんなバージョンはない)。

健ちゃんはここ数年の間ずっと、熟成がすすむ赤ワインのようだ。とろりとロマンチックで、ビターに熟している。光に透かすとキラキラする声。私はワインに全く詳しくないのでこの比喩は危険かもしれない。が、文章はこのまま進む。

健ちゃんは太陽の人だ。ご本人と面識はないしまともに話したことなど一度もなく、私はただ17年くらいステージの下から彼を見上げているだけのファンだから、あくまで印象論でしかないが、健ちゃんは太陽の人だ。いつも大きい口を開けて少し斜め上を見ながら「希望はある」と歌い、赤いスニーカーを履いて外へ連れ出してくれる。素直で、天真爛漫で、でもシャイで、ストンと健やかな人だ。ま、めちゃくちゃ酒飲みらしいと聞いたこともあるけど。
ベースもギターもキーボードも持たず、ただその声だけでエンターテイメントを成立させられる才能があり、にも拘らず、そのことを自覚していないようにも見える。まぶしい。

健ちゃんはロマンチックだ。現代において、ロマンチックは最も難しいスタンスかもしれない。
ボケよりツッコミがウケる時代になった。もう10年ぐらいずっとそんな感じだ。SNSユーザーはあらゆるものごとに下手なツッコミを入れたがり、その速度を競い合っている(ように見える)。Twitterはまるで“うまいこと言うた奴選手権会場”のようだと思う。世はリアリストで溢れ、軽い気持ちで放り投げたボケにはマジレスとクソリプが来る。マジレスとクソリプって本来別のものなのに、もはや同じ意味に聞こえる。
そんな中で、ただ堂々とロマンチックであること、聴く人をロマンチックにさせられることは大変難しい。今ロマンチックをやるには強度が要る。ちょっとやそっとのロマンチックなんかでは何にも勝てない。誰も酔わない。リアリストの口を塞ぎ、聴く人の目をやさしく塞ぐロマンチックには、強度と深度が要る。健ちゃんはそれができる。

9曲目に収録されている健ちゃんの曲「Can I Talk To You」は間違いなくロマンチックだ。テレもせずど真ん中に、これ以上重くはできないであろうロマンチックを、ズドンと置いていく。このアルバム、最後の曲がこれなの?超かっこいいな。つーか健ちゃんの最近の曲に出てくる女の人って結構バチバチに怒ってて、それも良いな。

前作「Still Life」からもう3年か…あの時も「極まってんなぁ~」と思ったのに、まだ先が、まだ奥が、あるようだ。そうですかそうですか。わかりました。どこまででも一緒に行くよ。

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