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2025年6月23日 (月) 20:12

映画のはなし

『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』を観てきた。数か月前に映画館で予告編を観ていて、楽しみにしていた映画だ。公開されたと思ったらすでに早朝の回1回しか上映がなくなっており、慌てて朝8時半の映画館に駆け込んだ。めちゃくちゃ良い映画だった。

小説が原作らしいので読もうと思う。
原題は『대도시의 사랑법』、대도시(大都市)의(の)사랑법(愛し方)とのこと。「ジェヒ」の章を映画化したもの、とあるので、オムニバス形式の小説なのかもしれない。本屋さんに寄って帰ろう。

映画は大抵の場合「原題のほうが良いなぁ」と思うことが多くて、でも「じゃあお前が邦題考えろよって言われてもむずいなぁーーーー」と思うことばかりなのだけど、今作の邦題はなかなか良いのを付けたんだな、と思った。翻訳によって失うものもあれば、得るものだってある。まぁLOVE IN THE BIG CITYなので邦題と言っていいかは分からないけど。『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』ね、ビッグシティはソウルのことを指すが、ラブのほうは特定のどれかを指してはおらず、友愛・恋愛・性愛・家族愛・親愛などをまとめて全部包括していると思う。
私は愛について考えることが日増しに増えており(原因は不明)、考えれば考えるほどその定義の不可能性や、箱としての膨大さに取り込まれてしまってぼーっとする。愛は行動でもあるし、感情でもあるし、体験でもあるし、意志でもあるでしょう。愛ってなんなんでしょう、必ず最後に勝つらしいけど。勝つって何にだろう。
恋は、もう少しコンパクトな感じがする。懐で温められるサイズ。恋はふくらはぎに触れるワンピースの裾。恋は玄関でしゃがみ込む夜。恋はベッドで蹴る布団。「恋は迷わずに 飲む不幸の薬」と歌ったのは草野マサムネ(天才)。
劇中だと「愛は分からないけど“会いたい”は分かる」みたいな台詞があって、あれも良かったな。たしかに愛は茫洋だが、“会いたい”の輪郭はめちゃくちゃくっきりハッキリしている。他の行為でも、他の相手でも、取って代わることがない。“愛”とも“恋”とも違う強度が“会いたい”にはあるね。ほんとにそうだわ。

フンスとジェヒが一緒に暮らし始める(直前だったか、暮らし始めたあとだったかは忘れた)頃にテレビで流れていたmiss Aの『Bad Girl, Good Girl』を最後にもう一度持ってくるところや、劇中のニュースでかかっていた映画『Call me by your name』をフンスのお母さんが観に行くところなど、細かい描写が丁寧なところも良かった。あのときテレビでかかってた曲、あのころ流行った映画、みたいな、象徴的なパーツがあると、生活が見える。生活が見えると、人生が見え、人生が見えるとキャラクターの立ち上がり方が全然違って見える。
ジェヒの元カレのお母さんに借りた服が引っ越しのときに出てくるシーンもよかったね。恋愛にも友愛にも歴史がある。

フンスのお母さんは『Call me by your name』を観て、何を思ったんだろう。息子にゲイだと打ち明けられて観る映画として適切かどうかは分からないけど、息子のことを知りたい・理解したいと思う一心だったことだけは十分に伝わるシーンだったと思う。こういう「多くは語らないけど伝えたいことだけは的確に伝える」のって、作る人の技量でしかないな、という感じがしてかっこいい。
しかし「木いちご?」て字幕出てるとこ、すごい翻訳難しいやろうな、と思った。血だと思ったら宝海(ボヘ)の覆盆子(ボクブンジャ)を吐いただけだった、という緩急のあるシーンで、そのあと覆盆子の瓶が2本ぐらい写るのでそこまでくれば分かるけど、でも覆盆子(言われてみれば結構血液っぽい粘度の酒、真っ赤)が何かを知らなければ、結構「???」なシーンじゃないのか。フンスが気づいて緩むまでの時間と、観客が緩むまでの時間に、時差があるというか。数秒とはいえ。私は韓国語がほんのすこしでも分かるようになったことで、どう翻訳するかを見る楽しみもできたと思う。うれしい。

miss Aのことはグループ名はなんとなく聞いたことはあるような気がする程度で『Bad Girl, Good Girl』も知らなかったのだけど、すごく良い曲だと思った。歌詞もキャッチ―でかわいいのだけど、メロディーがちょっと、ほんのちょっと切なくて、とっても良かった。J.Y. Parkさんてもしかして、つんくさんみたいな感じの方なのか……?つんくさんの曲ってちょっと切ない感じというか、ちゃんと湿度があるやん、あの感じ好きやねんよな。

ジェヒが産婦人科で泣くシーンもすごく良かった。思い出しても胸が痛い、悲しいシーンだったが、不可欠なシーンだったと思う。生まれたときから勝手に体内にあるものを神聖だとか神殿だとか言われるのってすごく不気味なことだ。私と私の身体とは、本当に同一のものなんだろうか、と思うことがある。だって身体が私の意思なんか汲んでくれたことはないし、私がこの身体の中にきちんと収まっていたことなんか一度もないように感じる。私が根本的に「身体が利かない」人間である、というだけのことなのか、そういうわけでもないのか、どうなんだろう。みなさんはどうですか。
結局持って帰ることになった子宮の模型をジェヒが捨てるわけでもなく、デスクの上に置き、引っ越しの日に持っていくわけでも、そのタイミングで捨てるわけでもなく、フンスはそのデスクで小説を書くことになる。その傍らにも子宮の模型が置いたままになっている。なんか、なんだろうな、全然言語化できない、あの感じ、めちゃくちゃ良いけど、何がどう良いのか全然。私も子宮から生まれて、腹の中に子宮を持っているのにな。

結構明確にパンチライン!な台詞がたくさんあるのも良かったな。「あんたらしさが弱みになるはずない」とか、「執着が愛でないなら、僕は愛したことがない」とかね。私は結構「ウワァパンチラインドヤ!の感じ、しゃらくせぇな~~~」と思うタイプのひねくれ拗れ人間なのに、しっかりどっしり効いている。前者は映画全体のコンセプトでありキャッチコピーでありメッセージだし、後者は言う人・言われる人・言うタイミングなどがバッチバチにきまっており、短針と長針と秒針が重なるときみたいに美しかった。
「今だけを生きるジェヒ」も良かったね、ミンジュンありがとう。「社会に・会社に馴染もうとして見失ってしまったジェヒの比喩であるところのハイヒール(だと私は解釈した)」を探してくれるミンジュンよ……ジェヒはハイヒールの片方は自分で見つけているところも良い。靴に関する描写はベージュのペタンコパンプス→ハイヒール→赤いコンバース、まで、映画後半を繋ぐキーアイテムでもあるな。こういうところも丁寧。丁寧な仕事。
「女性がひとりで夜道を歩くと危ないから」という文脈で出た「(じゃあ)男が先に帰れば良い」も良かったな。なんて美しいカウンターパンチだ、軌道が見えるようです。

映画館を出たら同じ映画の同じ回を観たらしい友人に偶然会い「今年一番の最高に良い映画~!!!」と言い合ったが、冷静に考えたら『リアル・ペイン』も『ウィキッド』も今年だった。「今年一番の最高」が乱立している。良い年ですね。

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