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多色

2026年4月15日 (水) 21:56

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MMCA(韓国の国立現代美術館)が本当に好きで、毎回行くのを楽しみにしている。今回はライブの前だったのであんまり時間がなく、駆け足で回ったのだけど、ダミアン・ハースト展と、大本命『消滅の詩学:衰退する美術について』展を見てきた。コレクション展は前回11月に来た時と同じ展示内容だったのでパスしても良かったけど、好きな作品(윤형근の다색という作品、めちゃくちゃかっこいい、ちなみに다색を翻訳すると多色、とも茶色、とも出るんですけど、作品名はどっちを指すんか知りたい、作品はどっちにも見えるんです、英題がBurnt umberになってるから、まぁ茶色なんかな)があるのでせめて前を通りたくて(???)入場。好きな作品の前で深呼吸するだけの時間って人生に必要じゃないですか。
ダミアン・ハースト展がめちゃくちゃ人気で、入場するまで結構並んだ。ダミアン・ハーストがすごく人気なのか、どっかで何かがバズってるのか、とかは分からない。若い人が多くて、みんな熱心に写真を撮るので、ただ「休日に美術館へ足を運ぶ私」の写真を撮りに来ているのかもしれない。良いと思う。虚栄心だと笑う人はいるだろうし、自分自身の中にもそういう声はあるけれど、虚栄心ほど何かの種になり得る感情もそうそう無いでしょう。虚栄心が私を美術館に、映画館に、博物館に、工芸館に、民族館に連れていくなら、それはもう知的好奇心・知的探求心とほぼ見分けがつかない。知的虚栄心と呼んだって良いとすら思う。そんな言葉があるかどうかは知らん。無いやろな。

『消滅の詩学:衰退する美術について』は、まず序文から痺れる。引用するので読んでほしい。韓国語の原文をPapago翻訳にかけたものを、私が一部意訳したので、正しさは求めないでほしい。注文が多くてすみません。

優れた作品は「不朽の名作」と呼ばれる。このとき「不朽」とは、「腐らない」という意味を持っている。
「優れた作品」が「変わらない作品、あるいは変わってはならない作品」であるなら、わざわざ変わって消えていく作品を作る理由とは何だろうか?
本展では、いつか腐っていく運命にある作品、いっそ何も残さないと決めた作品、そして自らが分解されるさまを堂々と見せる作品を、『腐る美術(삭는 미술)』という名前でまとめ、紹介する。

要は美術館が、自分たちの仕事は「不朽の名作」を保管し、変わらず不朽であり続けるための箱でしかないのか、変わらず不朽であることだけに価値を置いていて良いのか、という自問自答の美術展、なのだと受け取った。うーん、かっこいい。保管・保存や管理が美術館の重要な仕事のひとつであることは間違いないと思うけれど、何らか問題や問いを提起し、提示して共有することも美術館の役割で、私が期待することでもある。

なお、韓国語の「삭다(腐る)」には「朽ちる」以外に「消化される」や「発酵して味が出る」という意味もあるらしい。
腐敗と発酵に科学的な違いは無い、と聞いたことがある。それを「腐敗」と呼んで嫌悪するのも「発酵」と呼んでありがたがるのも、どちらも人間側の価値観でしかないが、世界はもちろん人間のためだけにあるわけではなく、人間はこの世界の中心などではないことを、改めて思い起こす。

ひとつめの展示室で展示されているのは「土」で、度肝を抜かれる。しかもこれは「肥えた土」だ。においで分かる。良いにおい。
キャプションによると、この土の面倒を見る耕作者チームが編成されており(実際に私が見たときは水やりをする人がいた)、ソウル大学の研究室が土壌の成分を分析し、分解を促進するために協力しているらしい。
これはアサド・ラザという人の『Absorption(吸収)』という、れっきとした作品である。土は現地で調達した素材と廃棄物を使って作り『neo soil』と呼ばれている。ここではコーヒーかすや宅配の箱、銀杏、松の葉、鶏の骨を細かく砕いたもの、揚げ物のかす、なんかが使われているらしい。つまり、韓国という国の、ソウルという街の副産物が、この土には入っているのだ。土にとってこれらは「ゴミ」と言うにはエネルギッシュかつ豊かすぎるので、부산물(副産物)とされているんじゃないかと推察する。ソウルではみんな水の代わりみたいにアイスアメリカーノを飲み、Coupangの宅配を受け、この美術館の前にある景福宮は周りに銀杏並木があり、松(소나무)は韓国のシンボルとも言える木だし、ビールで乾杯してチキンを食べるが、その鶏肉は揚げてある。
観客はこの土の上を歩くことができ(ふかふか)、望めば持って帰ることもできるようだ。つまり、アサド・ラザという人のアイデアと、ソウルという街の記憶のようなものを含み、その他大勢の人の手と、人でないものたちが育んだ土を、自分の手で広げることができる、という作品。
も、持って帰りたい。土って国を越えて持って帰る方法がいっこもなかった気がする。検疫とおしても土はあかんよね?持って帰りたかった。この土を持って帰って、ベランダで何か植物を育てたらおもしろかっただろう。

後半の展示室で見たエドガー・カレルの『Ru k’ox k’obel jun ojer etemab’el』も良かった。原題が読めない。作者はグアテマラの方だそうなので、グアテマラは何語を使うん、と思って調べたら公用語はスペイン語、とのこと。が、先住民言語が20以上ある、とGoogleは言っている。英語では『The Echo of an Ancient Form of Knowledge』、韓国語では『고대 지식 형태의 메아리』と訳されており、これを日本語に訳すと『古代の知識 形態のエコー』となる。『El eco de un antiguo conocimiento』というのも見つけた、これはスペイン語だと思う、ので、『Ru k’ox k’obel jun ojer etemab’el』はマヤ・カクチケル族の言語なんじゃないかな。
これはマヤ・カクチケル族の伝統的な儀式であり、祭壇であるようなので、要は「文化」や「風習」であるということだから、これを「作品」と呼んで扱って良いのかどうか、という問いが生まれている。が、便宜上作品と呼ぶと、この作品は石(岩)の上に果物と野菜が載せられているもので、30点くらいある。展示室の床に置かれている。
カクチケル族にとって「石は山の体であり、先祖が宿る場所」であるらしい。果物と野菜はお供え物だと言う。日本も同じですね。カクチケル族はこれにお酒を注ぎ、お香を振って、大地と先祖に感謝を捧げることで、作品の完成となるらしい。見ているとキャプションを読まずしてもなんだか愛らしさのようなものを感じ、どこか神聖な気持ちになり、手を合わせたいような気分になった。「石に食べ物を載せただけのものに?」と揶揄する人もいるかもしれないけど、その人もたぶん、名前の書いてある四角い石に花を手向けてお香を立てかけ、水をかけて手を合わせたことがあるだろう。
イギリスのテート美術館はこの作品を「購入」して「所蔵」することをせず、ただ13年間「保護」するという契約をしたそうだ。売り物でなく、誰の所有物でもないものと、美術館がどのように向き合い、価値を認めるのか、所有する以外のやりかたで継承する方法はあるのか、という作品だったと思う。しかもテートの答えは「ある」だったということだ。素敵だな。
ちなみにその「保護」には「果物や野菜を取り換える」は含まれるんだろうか。カクチケル族はどうしているんだろう。日本だとお供えした食べ物は一定時間置いたら私たちがいただきましょう、とするケースが多いように思います。

MMCAはミュージアムショップも大変素敵なので、買い物も捗る。この日は紙のモビールを買った。企画展のグッズもおしゃれだし、セレクトショップみたいな役割も担っているので国内作家の作品を買うこともできる。美術書のコーナーも充実してて、ほんとうにうらやましい限り。
次はソ・ドホ展を必ず見に行きたいです。

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