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どっちゃでもええわ

2025年1月25日 (土) 19:10

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関西弁、特に神戸の方言について調べる機会があって、おもしろかった。「どんな機会やねん」と思わなくもないが、正直こんな機会でもないと、自分が使っている方言について調べることなどないと思う。

物を調べるとき、手っ取り早いのはGoogle検索で間違いないと思うが、私は結局検索エンジンが出してきた情報のことをあまり重く受け止めてはいないように感じる。「信じてない」とまではいかないが、なんというか、「誰がいつ書いた文章か分からんやん」と、いつも思っている。ネットに書いてあったものはあくまでネットに書いてあったもので、それ以上でもそれ以下でもない、という感覚。この感覚って、人によって結構差があるように思うけど、照らし合わせるのも難しいね。ただ、ピントがあんまり合ってないような感じがしていて、これは一生このままな気がする。
あ、私は自分が書いた文章も、人から見れば「誰がいつ書いた文章か分からんやん」と思われるものと分かっているし、それでいいとも思います。

検索エンジンが出してきた情報をいくつか懐に入れて、私が向かうのはいつも図書館だ。
「図書館にある本なら、書いてあるすべてのことを丸ごと全部そっくりそのまま信じられる」というわけではないけど、検索エンジンが出してきた情報に比べるとどっしり、ずっしりしていると感じる。まじで感覚でしかないので、言語化は難しい。

本は、奥付に出版された日付が書いてあるのも気に入っている。最初にその本を作ったときの日付、さらに増刷したときの日付も書いてある。改訂した場合はその日付も。著者や、取材先、編集者、その人たちの所属先なんかが書いてあるのも良い。
ただこのことが、そこに書いてある情報を信用できる基準であるかどうかとは別に関係ないとも思う。

「信用」って、考えれば考えるほどフワッとしてるな。実態がないからか?こんなフワッとしたものを、どうやって重々しく扱えばいいんやろ。だって「信用してたのに裏切られた」みたいなこと、よく聞くやん。こんな吹けば飛ぶようなフワッとしたものに、裏切りなんて重々しいことが起こりえる?

方言について調べるとなると、言語学者の人たちが書いたものをたくさん見ることになっておもしろかった。その人たちがどうやって調べているかというと、結局現地に出かけていって、現地の人たちに直接聞いて、というやり方らしい。思ったとおりの地道なやり方やな。とはいえ、その地道な努力と熱意の先にこの本の完成があり、そのまた先に今、私がいる。人が考えたことや調べたこと、作ったものの恩恵の中で、今日も暮らしている。

「まだ傘をさすほどでもない雨の降り始めの状態をなんと呼称するか」という調査結果の分布図を見ていると、母の実家のあたりの調査で「ピリピリ」というのが記録されていて興味深い。「ぽつぽつ」か「ぱらぱら」かなと思ったけど、「ピリピリ」は初めて聞いた。私は使ったことがない。母が使っていた記憶もないが、もしかしたら祖父は使っていたのかも。曾祖母に会ったことはないが、彼女は使っていたのだろうか。
方言はこうやって日々変化し、消滅していくものなので「今調べて、保管しておかなければ」みたいな使命感がわくのかもしれないな。

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