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JULY 8, 1981

2025年4月21日 (月) 20:23

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韓国旅行を思い出し、毎日「また行きたいなぁ」と思っている。楽しかった。今回はトイレを借りてミュージアムショップに寄っただけの国立中央博物館に、次回は必ず行きたい。日本語のガイドツアーもあるらしい。現代美術館には毎回行きたい。

でも私は、国立の民族博物館が寄付を募るような国に住んでいるのだ、と思うと、暗い気持ちになるな……日本でももうちょっと頻繁に美術館や博物館に行こうと思う。それぐらいしかできることがない。
寄付を募ることが悪いこととは全く思っていないけど、でも国立の博物館なのだから、つまり「国はあの民族博物館がやろうとする事業に金を出せない(出さない、のかもしれんが、どっちにしてもそんなに変わらん)」ということなんだと思うと、かなり危機感を感じる。文化を守る、文化的な国であってほしい。

美術館や博物館だけでなく、建築物がどんどん取り壊される現実に、どう立ち向かえば良いのだろうな、といつも思う。例えば天命反転住宅は修繕費用が払えなくてクラウドファンディングに頼ったし、山の上ホテルは再開も未定のまま老朽化を理由に閉業(明治大学が買ったみたいなので、どうにかしてくれると期待している、出来ればまた泊まれるようにしてほしい)、千里阪急ホテルは来年取り壊しが決まっている。どれも民間の建築物だから、国がどうにかすべきってことはないのかもしれないけど、歴史的にも価値があることは素人目にも分かるのに、誰にも守ってもらえないのは悲しい。神戸でもあちこちの洋館がボコボコ取り壊されている。「どう立ち向かえば」っつーか、全然どうにも出来ないし、私になんの権利もないのよな。だからただ悲しい気持ちで見ているだけで。悲しいね。
クラウドファンディングに頼ることが悪いとは思ってなくて、私も「取り壊しを決める前に募ってくれてよかった」と思って出せるだけのお金を払うけど、でもあくまで一時的な解決にしかならないというのが気にかかる。だってどんなに好きな建築物でも「維持費がかかるから毎月1万円お願いね」って言われたら厳しいもん、毎月かぁ~毎月は厳しいごめん、ってなるもん。
他の国はどうしてるんだろうな。たとえば韓国は、どうしてるんだろう。
隣の席で鯖の定食を食べるおじさんに聞きたかったが、ここまでの説明を韓国語で出来ない私は、ただ自分の分の鰆をもりもり食べるしかなかった。歯がゆい。歯がゆいが、鰆はうまい。

現代美術館では「会話」をテーマとしたワークショップメインの展示が行われていた。あんまりちゃんと理解できなかったけど、たぶん「美術作品に触れると、その作品の説明や感想、解釈なんかが言語化されるね!言語もめっちゃアートじゃない!?言語で何ができるか体験してみよう!」みたいな感じだった。良いテーマだなと思う。
ちょうどトークイベントが始まるところだったので参加したかったけど、どう考えても付いていける語学力がないので諦めた。悔しいが、こういうイベントに参加できるようになるほどの語学力はそう簡単には身に付かないだろう。ま、10年単位で考えれば、いつかできるようになるかもしれない。
何か私でも参加できるワークショップがないか見ていたら「本を読んで、ノートに文章を書き写しましょう、感想があれば付箋に書いてね、前の人が書き写した分の続きから始めてね」というものがあった。ほほーん、これなら出来そう。本を読んでも意味は分からないけど、書き写すぐらいなら私も出来る。
が、活字ならまだしも、人間が書いたハングルを読み慣れていない私は「前の人が書き写した分の続き」がどこなのかが分からない。人間が書いたハングルって、めちゃくちゃ読みにくいんやな。当たり前か。봄か봉か봅か、まじで分からない。文章が読めればもちろん区別できるねんよな。前後から推察できるから。言語って何割ぐらい予測で扱ってるんやろ。もしかして、6割ぐらいは予測じゃないのか。
数字やアルファベットを頼りにどうにか「前の人が書き写した分」がどこまでなのかを見つけ、「続き」を書き写した。人名と助詞くらいしか理解できないけど、正直私はハングルを書いているだけで楽しい。
感想を付箋に、か。なるほど。でも感想は書けない。何しろ何が書いてあるか分からないんだから。せめて何の本かは知りたい、と思い表紙をGoogle翻訳にかけたら『他人を聞く時間』というタイトルの本だった。おもしろそうな本ですね。私が書き写していた部分は元素の話をしていたらしい。文脈も分からない。

この展示に限らず、現代美術館は作品展示とその後のワークショップがワンセットになっていることが多いみたいだった。ワークショップといったって、紙と鉛筆がおいてあって「展示を見た感想を残していってね」ぐらいのもんで別に難しいことではないけど、老いも若きも結構みんな積極的に参加していて良いなと思う。好きな作品をリストアップしたり、作品を模写したり、誰と来たか書き残したり、詩みたいなものを書いたりして、置いていくみたいだ。素敵だな、と思うけど、韓国の人たちがそれを素敵な行為だと思っている様子はあまりなかった。それぐらい「なんてことはない」行為なんだろうか。だとしたら、もっと素敵だ。
感想を言ったり、どんな気持ちになったか話したりすることに、なんのハードルもない世の中であってほしい。日本は(私の主観的体感の域を出ないが)「感想の感想」を言ってるだけの人が多いと思う。たしかに作品をつくるより、「感想」を言うより、「感想の感想」を言っているだけのほうが、圧倒的に楽だし、頭も良さそうに見えるし、何より傷つかなくていいもんね。でもそれをやっている以上は外側で、外側にいる限り、そこはずっと外側だよ。
外側にいる人が強いのは、単に数が多いからってだけだと思うけど、この構造自体が、私はあんまり気に入らない。

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