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ただかわいいだけ

2022年9月30日 (金) 21:27

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かわいくて、めちゃくちゃ欲しくて、とは言え生活に必ず要るものでない場合、簡単には買えない。値段が高ければなおのことだ。

アレッシィ(というイタリアのブランド)のケトルを何かのインテリア雑誌で見かけたとき、あまりのかわいさに、ページを千切って持って帰ろうかと思った。場所は通っていた高校から一番近い本屋で、雑誌は売り物だったので、もちろん千切りはしなかった。その時の私は高校生で、雑誌を買うお金すらないのに、インテリア雑誌に載っているケトルなんか、買えるはずもなかった。
数年後、そのケトルのことをふいに思いだし、すぐデザイナーを調べた。デザイナーはアルド・ロッシ、建築家だった。日本にもいくつか設計した建物があるようだ。
雑誌の中ではわりと高齢の女性の家のキッチンに置かれており、長く使い込んだような経年変化も含めて素敵だった。私は基本的に、デザインが良くて丈夫な物・質の良い物を長く使うのが好きだ。ただし「機能的でなくてもべつに良い」とも思っていて、自分ではそのあたりに、私らしさを感じたりもする。理由はわからないが。

が、ケトルは3万円だった。3万円。湯を沸かすだけの道具が。高い。ヤカンに水を入れてコンロにかけ、湯を沸かしてる人間なんて、もはや少数派なんじゃないのか。いまどき電気ケトルだって3万もせずに買えるはずだ。でもかわいい。欲しい。もう高校生じゃないから3万円は「払える金額」だ。でもケトルだぞ、「3万円が払えるかどうか」は今あまり関係ない。
円錐形のすっきりしたデザインは、建築家が設計した建築物と同様に、整然としているように見えるが、全体のバランスや注ぎ口の角度、取っ手の大胆さは感性的でもある。うわーん、超かわいい。超欲しい。私の家のキッチンに、あのケトルを置くさまを想像してみる。リンナイのビルトインコンロにも似合うだろう。欲しい。
でも湯を沸かすだけなら鍋でも良いのだ。「今持っているのが少し小さくてちょっとだけ不便」は、3万円のケトルを買う理由として弱すぎる。一人暮らしを始めるときに母が買ってくれたこの琺瑯のケトルひとつで、もう10年近くやってきたのだから、普通に考えたら今後もこれひとつあればやっていけるはずだ。そもそも3万円あればケトルだけでなく家中の鍋とフライパンを全部買い替えられる。

こうなると毎月「ケトル用貯金」として紙封筒にちまちまと貯金し、数か月経ってもまだ欲しければ買っても良い、という独自ルールを発動するしかない。お店の近くを通ったから、賞与が出たから、などの衝動的な理由で買うことを禁止し、一時的に上がりやすい物欲の、鎮火を待つ作戦だ。ちょっと高いな……と思うものを買うときは大体いつもこの作戦でやってきた。もし鎮火したら「いつもより多く貯金ができたな」で済むし、鎮火しなかった場合は堂々と胸を張って買えばいいのだ、そのために貯金したんだから。

それから4ヶ月ほどの「ケトル用貯金」を経たが、結局ケトル欲は鎮火しなかった。私はにこにこの顔で堂々と胸を張り、梅田へ行った。アレッシィは阪急の7階にある。お目当てのケトルは商品棚のだいぶ上の方にひとつだけ置かれていた。いかにも「意を決してこれを買いに来ました」という雰囲気が溢れ出ていた自覚があり恥ずかしかったが、意を決してこれを買いに来たのは事実なのだから仕方がない。店員さんが「何かお探しですか?」と声をかけてくれるよりも先に「あれをください」と指をさした。

そのときの店員さんは「こちらはアルド・ロッシのデザインでして……いや、ご存じですよね、失礼いたしました」と言っていて、私の「意を決してこれを買いに来ました」感を、何も言わずとも理解してくれているようだった。私は「ずっと欲しかったんです、うれしいです」と答えておいた。私の言う「ずっと」がまさか10年越えとは思っていないだろうけど、店員さんは「そうでしたか、どうもありがとうございます」と言って箱から出したケトルに指紋が付いたりしないよう、白い手袋をはめて丁寧に梱包してくれた。水を入れて火にかける鉄なんだから指紋なんか気にしないで良いし、すぐ使うから箱はどうせ捨てるのに、と思う一方、「意を決してこれを買いに来ました」の身としては、丁寧に応対されるとうれしい。

そこから2年経った。アルド・ロッシのイルコニコケトルは、今日も私の家のキッチンでかわいい顔をしている。冬はストーブの上に乗っているが、飽きずに今もずっとかわいい。私は「良い物を買ったなぁ」と、にこにこの顔をしている。

先日、家に遊びに来た友人が「おしゃれなヤカンやなぁ~」と言ってくれたので「そうやねん、めっちゃ高かった、3万もした」と答えたら「えー!めっちゃ高い!でも、やっぱ良いん?すぐ沸くとか?」と聞いてきておもしろかった。確かに、ただ湯を沸かすだけのものが3万円もするんだから「かわいい」だけでは済まされない。「異常に早く沸く」とか「お茶が劇的においしくなる」とか、付加価値的な要素が無いと、その値段はおかしい。そういう考え方もある。
残念ながら(?)このケトルは全部がステンレス製で、火にかけると全体が素手で触れないほど熱くなるのでミトンなしでは使えないし、蓋の部分が小さくて手が入らないので洗うのが面倒だし、茶渋が付いたらきちんと洗い落とせないかもしれないと思うと不安でお湯しか沸かせない。サイズもわりと大きいから置き場所を取る。お湯が沸く速度はあまり気にしていないので正確なことは分からないが、CMでやっているティファールの電気ケトルの方が絶対に早いだろう。すぐ沸く?と聞いてくれる友人の期待には沿えるほどの速度ではないと思う。

私は友人に「ううん、ただかわいいだけ」と答え、話題は別のことに移った。
ただかわいいだけのケトルで、私は今日もただ湯を沸かし、良い物を買ったなぁと、にこにこの顔をしている。

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