タナカノゾミのポートフォリオサイト

blog

恵みの雨だ

2025年6月9日 (月) 20:46

uncategorized

「傷ついた」ということを受け止めるのって、めっちゃ傷つく。すでに傷ついているのに、その傷をきちんと視認して、もう一度自分でいじくりまわさないといけないのだから、そりゃ傷つくに決まっている。でも傷を傷のままそっとしておけるケースなんて、そんなに多くない。だから、その場では「なんかモヤモヤするなぁ」ぐらいで留めておいて、あとから「あれはなんだったのか」の反芻の波が襲ってきて夜眠れなくなり、深夜にひとり布団の中で「あぁ私は傷ついたんだ」と腹に落とすことで、もう一度傷つく。そのころにはもう相手は目の前にいないので、その人に「あのとき傷ついた、つらかった」という話をすることはない。もしするとしたら、その人のことが心底好きで、これからもその人のことを心底好きでいたい場合だけだ。

物理的な傷の話はしていません。物理的・肉体的な傷の話で言うと、こないだマーチンで下山したときに踵を広範囲ベロっとやってしまったんですが、キズパワーパッドでとってもきれいに治りました。あれすごいね。
あ、物理的な傷も、自分の目でどうなってるかちゃんと見たときに痛みが増すね。「ワァめっちゃ血でてたな」と思うとき、靴はいてるときより痛く感じる。あれどういう理屈なんやろ。

友人が「夜ねむれなかった話」をするのを聞いていた。具体的には書かないが、まぁ人間関係の話だ。人の悩みや苦しみのほとんど全ては人間関係のことだと思うので、言うまでもないことだけど。
人間は悩みや苦しみを次々と自分たち自身で作りだし、それを喰らいながら生きている、本当に愚かな生き物だと思う。どうもこんにちは、愚かな生き物こと人間です。

人は自分を機能として扱われると傷つく。属性や数値で自分を測られると傷つく。分類されると傷つく。憶測で断定され、話を聞いてもらえないと傷つく。軽んじられている、と傷つく。
が、自分もこれを人にしている。「私はしていない」なんて、私は口が裂けても言えない。絶対にしている。
「だからお互いを許し合いましょう」とも言えない。そんなこと言えるはずがない。「あなたは私を傷つけていて、私もあなたを傷つけているのだから、プラマイゼロで、お互いなかったことにしましょう」とは言えない。そんな都合の良い話があるか。あなたが傷ついた話と、私が傷ついた話は別の話だ。絶対に同じではない。

みんな幸せになりたいだけなのにな、なかなかうまいこといきませんね。

あ、この話、結論とかないです。私は解決策も持ってない。おいしいもの食べて風呂入って寝ような、ぐらい。でも傷ついてるときって目が冴えて寝られないし、おいしいものを食べようという気力すらも沸かないね。そういうとき風呂なんか入れないよな。自分を労わる理由が無くなるもん。分かるよ。入れるとき入ればいいよ。

『サピエンス全史』の中に「農業革命以降、人間は未来のことを心配するようになった」というようなことが書いてあった。狩猟採集民だったころ、人間は明日のことを心配したりはしなかったらしい。理由は簡単で、そんなことを心配したってどうにもならないからだ。「明日は鹿を狩れるだろうか」と考えたって、そもそも明日鹿に遭遇するかすら分からない。いつどこに魚群が現れるかなど探知しようがないのに「明日鯖を食べられるかな」と思い悩んだって仕方ない。その日採れたものを食べるだけだ、腐らないうちに。
農業革命後、人間は畑を持ち、畑を守るためにその近くに定住するようになった。畑があるせいで、「明日晴れるかな」「ちゃんと雨が降るかな」と心配せざるを得ない。農業革命によって、人間は未来のことを考えるようになったらしい。「なってしまった」と言っても良いような気がするけど、どうだろう。

そういえば、登山家の人の話だったと思うけど「遭難したときに未来の話をしてはいけない」というのがあった。どこで読んだのか覚えていないので正確ではないと思うけど、大体こういう話だった。
雪山で遭難すると、寝ると死ぬのでどうにかして起きておく必要がある。こういうとき、人間は未来のことを考えてしまう。この吹雪がおさまったら、視界がもう少し開けたら、道を見つけられたら、もし救助がきたら、無事に下山できたら、帰国したら、家族に会ったら、と未来のことを考える。でも未来のことは大体そこまでで考え終わってしまう。確かにそうかもしれない、考えうる未来のことなんて、そんなにバリエーションがない。考え終わると、話終わると、そこで眠ってしまう。だから、遭難したときに未来の話をしてはいけないのだそうだ。

あ、ここから得られる教訓とかはないです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

archive

latest posts