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テアトルパピヨン

2025年3月21日 (金) 20:00

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自宅の見学会が行われることになった。リノベーションをやってくれた会社から連絡があり、「何度か相談会に来てくれた人たちを対象に、田中さん家の見学会をしたいんですけどどうですか」みたいな話だった。私が家を買ってから6年が経つ。もうそんなになるか。早かったな。
家は今もすごく気に入っているし、打ち合わせは毎回楽しかったし良い思い出ばかりなので、事例として参考にしてもらえるならぜひぜひ、と思う。
が、家は竣工当時に比べたら物が増えているし、隅々まで掃除が行き届いているとは言い難い。慌てて掃除を始めたら「服こんな要る?」モードが発動してしまい、あっという間にゴミ袋2つが完成した。窓も気になって拭き掃除をしたけど、腕がバッキバキ。窓の多い家よ。
物は買うより捨てるほうが遥かに面倒だということを肝に銘じて生活しようと思う。分かってるけど忘れるねんよな~思い入れとか愛着とかって、物そのものとは別なのに、どうしてもいっしょくたになってしまうね……かといって、生活に要るものだけが必要最低限ある家なんてまっぴらごめんだ。そんなのはミニマリストにやらせておけば良い。私は愛着と執着で巣みたいになっているのに一見片付いている、みたいな家をやります。年に一回使うかどうか、みたいな皿だって捨てないし、花がいけられていない花瓶だって捨てない。

お弁当を持っていくようになった、という話をすると「えらい」「すごい」とたくさん言ってもらえる。会社の周りにある飲食店に行き尽くして、心底飽きたから、という消極的理由だし、ジップロックコンテナに適当なスープか炒め物を入れているだけなのだけど、どうも「自炊しているのがえらい」という価値観があるのだと思う。一方で、毎日3食家族全員分の飯を煮炊きしている母が「えらい」「すごい」と褒められているのを、実家で暮らした18年間で一度も見ていないんじゃないかと思う。なんだこの不均衡は。私は自分の飯を自分で作っているだけだが、母は人の飯も、自分は食べない人の分の弁当まで作っていたのに。しかも無償で。
ちなみに私の今日のお弁当は温泉卵(炊飯器でまとめて作った)、納豆(パックのまま)、かつおぶし(小分け袋のまま)、冷凍ごはん、インスタントのお味噌汁(わかめが少ないので足す)である。これでも「えらい」し「すごい」のだとしたら、母が作ってくれていたお弁当は紫綬褒章ぐらいもらってないとおかしい。

先日、友人とクッキーを買いに出かけた。「今って詩がなさすぎる、日本って全然詩がないよ」という話が友人に通じて、すごく嬉しかった。こういう感覚的な、しかも肌感覚的な話をするのは結構怖いことだ。大抵の場合、そもそもの話自体が通じないし、通じたとしてもこんな話に出口はない。私も別に解決策なんかを求めているわけじゃないし、なんというか、種しかない話だからだ。肌感覚の域を出ない話なので、「例えばどういうこと?」とか聞かれても困る。話しておいて何か聞かれたら困るなんて、無茶苦茶だと自分でも思う。でもそういう話ってあるでしょう。
友人はこの種でしかない話を理解し、かつ同意して、「でも元々は詩があったはずやんな、だって和歌の国やのに」と言ってくれた。うれしい。
日本にはいま詩がない。そのせいでひもじく、貧しく、奥深さがないんじゃないかと思う。なんでも二項対立の構造にして、ぜんぜん詩的じゃない。韻も踏めないし、波が生まれないから、リズムとかメロディーとかグルーヴが生まれない。詩がない。詩を取り戻すにはどうすればいいんだろうな。

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