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蕃紅花色のドア
2025年10月22日 (水) 20:49
最近、自分の原画が結構良いものに見えてきて、ファイリングしておくことにした。シルクスクリーン作品をつくるとき、私は絵を描くところから始める。まずA4のコピー用紙にシャーペンで下描きをして、それを0.3mmのコピックライナーでなぞり、シャーペン跡を消しゴムで消してからスキャンする。スキャン後はPhotoshopで二階調化、オブジェクトの配置や隙間なんかの調整をする。あとはIllustratorに移してパスデータにし、レイアウトやサイズなんかをさらに調整してから版下にしている。ので、手で描いた原画がある。iPadとかペンタブレットなんかを使えば、いきなりパスデータを描けるはずだけど、なんか気が進まない&環境を整えるのが面倒で……制作頻度からしても、ソフトやハードを買い揃えたりするほどではない。つまり、よほどのことがない限り制作手順はこのままだと思う。
原画は特に「これは原画である!」という意識がないので大切なものとは思えず、とりあえずクリアファイルに挟んで置いてはおく(再スキャンが必要になる可能性はあるので捨てはしない)、ぐらいの扱いだったが、最近はなんかこれらが「良いもの」に見えてきた。理由は単純で、数が溜まってきたせいだと思う。数が溜まってくると良いものに見える、というのは何かの法則性があるような気がする。オタク気質のせいかもしれないけど……
余っているA4ポケットファイルに描いた日付順に入れてみると、もっと良いもの感が増してうれしい。捨てずにとっておいてよかったと思う。
私が自分で描いたものにさほど価値を感じないのは「(自分で描いたものなら)もう一度描ける」という視点があるからだと思う。私は何度でもこれを描ける、なぜなら私が描いたから、なんなら次はもっと上手く描ける、という気持ちになってしまい、あまり「良いもの」として扱うことが出来ない。
が、最近は急に「何度でもこれを描ける」は嘘だな、という実感がフツフツと湧いてきている。確かに似たようなもの、同じ雰囲気のものなら描けるけど、それは全然別物だ。あと自分の望む方向かどうかは別として、上手くなっていく。こなれていくというか、続けていくと上手くなっていく。上手くなっていってしまう。これからもずっと似たようなものを描いていくのならなおさら、今描いたものは二度と描けないことを、自分で認めないといけないんじゃないのか、と最近は思っている。
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