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落下

2025年10月4日 (土) 14:26

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ウェス・アンダーソンの新作を観て以降、配色のアイデアが止まらない。メモしておけば良いだろうと思うけど、配色をメモするなんて……とも思う。……何を言っているんだ。メモせえよ。何が嫌やねん。

万博に行ってきた。初日は夜券で夕方からだったものの、丸3日、大いに楽しんだ。私は「絶対に行きたいパビリオン」もなければ、「絶対に行きたくないパビリオン」もなく、万博に行く奴の中で最もモチベーションが低い人間なのではないかと思ったけど、熱心にリサーチしてくれていた友人のおかげで楽しめたんだと思う。混雑を避けるための工夫とかアイデアが、動線や設計など随所に見られたのもおもしろかった。ただジッと立って待つより、足踏みレベルでも少し身体を動かしたほうが、精神的に楽だということも覚えた。2日目はとにかく人が多く、パビリオンは並ぶのすらお断りされているような状態だったのだけど、スタンプはパビリオンに入らなくても押せるとか、ショップは入っても良いとか、レストランは入れないけどメニューは見ても良いとか、まぁまぁやることを見つけられておもしろかった。
それから、人間ってめちゃくちゃベタな生き物だなぁと思った。誰かが走り出すとつられて走ったり、あたたかい食べ物を食べるとホッとしたり、疲れて体力が無くなってくると性格が悪くなり、暑いだけで思考が鈍り、小さいことに引っかかって、(毎日あると聞いているのに)花火の音にびっくりし、光って動くものがあるとつい見てしまう。ベタ過ぎる。もちろん私もベタだ、例外なく全員が。「ベタなことしたくない」もベタやし……もちろん愚かだな、単純だな、と思う反面、人間は愛らしい生き物だな、とも思う。人間個々については何も言えないが(個体差がありすぎるので手に負えんし)、人間そのものは極めて阿呆で、愛らしいと思う。
一方、パビリオンをいろいろ観ていると国内旅行で地方都市に行ったときの感じと、すこし近いものを感じ取るときもあって、これが世界規模で起こっているのか、と思いもした。地方都市では、駅前に商業施設があり、ユニクロと無印があり、みたいなことが多い。別に仙台に行かなくたって利久があって牛タンを食べられるし、北海道に行かなくたって輸送がハイクオリティだからウニもイクラも蟹も食べられる。方言はいずれ絶えるだろう、そう遠くないうちに。平均化している、という意味では良いことなのかもしれないけど、コピペで増やした街ばかりになっているんじゃないかと思うと寂しく、虚しい。それでもみんな駅前にユニクロがあったら便利だし、SNSでバズってたコンビニスイーツが売ってたら嬉しくて買っちゃうし、それ自体が悪いことだなんて思わない。流行りのラブブが欲しいよな、分かるよ。
これを世界規模にして、県や市じゃなくて国に分けても、もしかしたらほとんど同じことが起こっているんじゃないか。いや、起こそうとしてるのか?それが世界平和ってことなのかな……違うと思うけど、感覚的なことなので言語化が難しい。
私が島国で生まれ育っていることも、価値観に大きく影響しているんじゃないかと思う。でも生まれる国なんて選べないし、みんなも選べないしなぁ。

イタリアパビリオンに並んでいる間読んでいた本には「人間は“何も知らない”ということを知った時点から、科学を発展させてきた、今知っていることもすべては暫定であり、いつでも覆る可能性がある」というようなことが書かれていた。私は今も暫定の上を生きており、ある日バツンと切り落とすように死ぬんだろうか、と思った。

翌日は市立博物館で開催されている大ゴッホ展に行った。大盛況だった。親子連れや夫婦も多く、三世代と思しき家族連れも多かった。「ちょっと涼しくなったし、美術館でも行ってみようかね」という人が多いんだろうか。良いことだと思った。私は混んでいる美術館は心底嫌いだし、認証ショット的に写真を撮影することも本当に嫌いだけど、美術館や博物館や工芸館が閉館の危機にさらされるのはもっと嫌だ。お金がすべてを解決するわけではないけど、お金でしか解決できないことは確実にあるので、引き続き大勢の人がフィンセント・ファン・ゴッホの絵を観に行ってほしい。どの立場で言うとんねん、とは思う。
本展では作品の間に挟む形で手紙の抜粋が展示されていたのもよかった。ファン・ゴッホが弟の支援を受けて画業を続けたことは有名な話なのでもちろん知っていたけど、弟宛の手紙は600通くらい現存するらしい。さすがに書きすぎちゃうんか、と思うけど、それ以上に兄ちゃんから送られてきた600通の手紙を保管しておく弟がすごい。さすがに置いときすぎちゃうんか。捨てろよ、とまでは思わないが、600通の手紙を保管しておくには、なんというか、じゅうぶんに熱意が要るだろうと思う。600通「書く」よりむしろ「保管する」ほうに熱意を感じる。書いたほうは送ってしまえばお終いだし、その紙の束を見ることもなければ、自分で読み返すこともないけれど、受け取ったほうはその物量や滝のような感情を背負う羽目になる。手紙ってかなり一方的な行為だと思う。
兄への愛だった、と美しく捉えても良いけど、どちらかというと弟はかなり几帳面な性格だったんじゃないか、と思った。記録魔だったとか。ちなみに兄もかなり几帳面な性格だと思う。几帳面な人が描く絵だな、と思う。
静物画の間に挟まって掲示されていた「モデルを雇う金がないので仕方なく花の絵を描いている、これでも色彩の勉強にはなるから頑張る、でも本当は人物画だけを描きたいのに」みたいな手紙を読んで、私はちょっと笑ってしまった。これはシンプルに愚痴やん。あと金銭的なサポートをしてくれている弟にそんなん言うなよ。笑 
この手紙を受け取った弟は、いくらかお金を送ったんだろうか。これでモデルを雇ってね、少なくてごめん、と。もしくは「こちらも生活が厳しい、まとまった金が入るまでは静物画を描いて凌いでほしい、パリでは風景画が流行っている、風景画ならモデル代がかからないし、売れるかもしれない」とかなんとか書いて返事を出したのかも。
ファン・ゴッホ以外の作品もたくさん展示されていたのだけど、カミーユ・ピサロの絵を見て「なんちゅーあったかい色彩や、気の良さそうな人やな、虹を描く奴は大抵ええ奴よな~」と思っていたらキャプションに「ピサロは温厚な性格で、めっちゃ人望があったんやで」みたいなことが書いてあって感心した。こんなにも絵に性質が出るものだろうか。いや、温厚さが絵に出るほどに温厚な人だったんだろうな。クセ者だらけの画壇で慕われたんじゃないかと思うとかわいい。ドガとか、ゴーギャンとか、めんどくさそうやもんな、酒癖も悪そう(知らんけど)。

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