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JULY 8, 1981

2025年4月21日 (月) 20:23

uncategorized

韓国旅行を思い出し、毎日「また行きたいなぁ」と思っている。楽しかった。今回はトイレを借りてミュージアムショップに寄っただけの国立中央博物館に、次回は必ず行きたい。日本語のガイドツアーもあるらしい。現代美術館には毎回行きたい。

でも私は、国立の民族博物館が寄付を募るような国に住んでいるのだ、と思うと、暗い気持ちになるな……日本でももうちょっと頻繁に美術館や博物館に行こうと思う。それぐらいしかできることがない。
寄付を募ることが悪いこととは全く思っていないけど、でも国立の博物館なのだから、つまり「国はあの民族博物館がやろうとする事業に金を出せない(出さない、のかもしれんが、どっちにしてもそんなに変わらん)」ということなんだと思うと、かなり危機感を感じる。文化を守る、文化的な国であってほしい。

美術館や博物館だけでなく、建築物がどんどん取り壊される現実に、どう立ち向かえば良いのだろうな、といつも思う。例えば天命反転住宅は修繕費用が払えなくてクラウドファンディングに頼ったし、山の上ホテルは再開も未定のまま老朽化を理由に閉業(明治大学が買ったみたいなので、どうにかしてくれると期待している、出来ればまた泊まれるようにしてほしい)、千里阪急ホテルは来年取り壊しが決まっている。どれも民間の建築物だから、国がどうにかすべきってことはないのかもしれないけど、歴史的にも価値があることは素人目にも分かるのに、誰にも守ってもらえないのは悲しい。神戸でもあちこちの洋館がボコボコ取り壊されている。「どう立ち向かえば」っつーか、全然どうにも出来ないし、私になんの権利もないのよな。だからただ悲しい気持ちで見ているだけで。悲しいね。
クラウドファンディングに頼ることが悪いとは思ってなくて、私も「取り壊しを決める前に募ってくれてよかった」と思って出せるだけのお金を払うけど、でもあくまで一時的な解決にしかならないというのが気にかかる。だってどんなに好きな建築物でも「維持費がかかるから毎月1万円お願いね」って言われたら厳しいもん、毎月かぁ~毎月は厳しいごめん、ってなるもん。
他の国はどうしてるんだろうな。たとえば韓国は、どうしてるんだろう。
隣の席で鯖の定食を食べるおじさんに聞きたかったが、ここまでの説明を韓国語で出来ない私は、ただ自分の分の鰆をもりもり食べるしかなかった。歯がゆい。歯がゆいが、鰆はうまい。

現代美術館では「会話」をテーマとしたワークショップメインの展示が行われていた。あんまりちゃんと理解できなかったけど、たぶん「美術作品に触れると、その作品の説明や感想、解釈なんかが言語化されるね!言語もめっちゃアートじゃない!?言語で何ができるか体験してみよう!」みたいな感じだった。良いテーマだなと思う。
ちょうどトークイベントが始まるところだったので参加したかったけど、どう考えても付いていける語学力がないので諦めた。悔しいが、こういうイベントに参加できるようになるほどの語学力はそう簡単には身に付かないだろう。ま、10年単位で考えれば、いつかできるようになるかもしれない。
何か私でも参加できるワークショップがないか見ていたら「本を読んで、ノートに文章を書き写しましょう、感想があれば付箋に書いてね、前の人が書き写した分の続きから始めてね」というものがあった。ほほーん、これなら出来そう。本を読んでも意味は分からないけど、書き写すぐらいなら私も出来る。
が、活字ならまだしも、人間が書いたハングルを読み慣れていない私は「前の人が書き写した分の続き」がどこなのかが分からない。人間が書いたハングルって、めちゃくちゃ読みにくいんやな。当たり前か。봄か봉か봅か、まじで分からない。文章が読めればもちろん区別できるねんよな。前後から推察できるから。言語って何割ぐらい予測で扱ってるんやろ。もしかして、6割ぐらいは予測じゃないのか。
数字やアルファベットを頼りにどうにか「前の人が書き写した分」がどこまでなのかを見つけ、「続き」を書き写した。人名と助詞くらいしか理解できないけど、正直私はハングルを書いているだけで楽しい。
感想を付箋に、か。なるほど。でも感想は書けない。何しろ何が書いてあるか分からないんだから。せめて何の本かは知りたい、と思い表紙をGoogle翻訳にかけたら『他人を聞く時間』というタイトルの本だった。おもしろそうな本ですね。私が書き写していた部分は元素の話をしていたらしい。文脈も分からない。

この展示に限らず、現代美術館は作品展示とその後のワークショップがワンセットになっていることが多いみたいだった。ワークショップといったって、紙と鉛筆がおいてあって「展示を見た感想を残していってね」ぐらいのもんで別に難しいことではないけど、老いも若きも結構みんな積極的に参加していて良いなと思う。好きな作品をリストアップしたり、作品を模写したり、誰と来たか書き残したり、詩みたいなものを書いたりして、置いていくみたいだ。素敵だな、と思うけど、韓国の人たちがそれを素敵な行為だと思っている様子はあまりなかった。それぐらい「なんてことはない」行為なんだろうか。だとしたら、もっと素敵だ。
感想を言ったり、どんな気持ちになったか話したりすることに、なんのハードルもない世の中であってほしい。日本は(私の主観的体感の域を出ないが)「感想の感想」を言ってるだけの人が多いと思う。たしかに作品をつくるより、「感想」を言うより、「感想の感想」を言っているだけのほうが、圧倒的に楽だし、頭も良さそうに見えるし、何より傷つかなくていいもんね。でもそれをやっている以上は外側で、外側にいる限り、そこはずっと外側だよ。
外側にいる人が強いのは、単に数が多いからってだけだと思うけど、この構造自体が、私はあんまり気に入らない。

fly day

2025年4月18日 (金) 20:38

uncategorized

「なんか、やることをいっこ、忘れてる感じがする、帰国したらやろうと思って、思ってたことは覚えてるけど、肝心のやることを思い出せん、なんやっけ」と思いながら歯を磨いていたら、完全に思い出した。固定資産税です。固定資産税払ってない。
もっとおもしろくて楽しいことを思い出したかったな。固定資産税かよ。はーーやだやだ。固定資産税かよ。

手しごと市で使う看板(といっても商品を置くテーブルにかける布)を作ったら、すごく「お店屋さんごっこ」感が出てきたので、愉快な気持ちになっている。
そういえば幼少期、3歳か4歳のころの私の「将来の夢」は「子ども服の服屋さん」だった。今となっては「自分も子どものくせになんで子ども服やねん」と思うけど、私はシルバニアファミリーとかリカちゃんとかでチマチマ遊ぶのが好きだったから、多分「小さくてかわいいものに囲まれていたい」という意味だったんだろうと思う。夢は概ね叶った、ということでいいでしょうか。え?ちがう?

タマキさんに作ってもらったロゴがあるおかげで、デザイン一式にまとまりが出るし、締まるし、本当にありがたいな。看板も、無地の布にバーンとロゴを刷っただけやのに、すごい見栄えする仕上がりになってうれしかった。「ロゴ作ってもらえますか」って言うまで数か月まごまごしたけど、本当に言ってよかった……(※5年前ぐらいのことを昨日のことのように話しています)
なぜ数か月まごまごしたかというと「自分で作れるでしょ」と言われたら返す言葉がないからです。自分で作れる、といえば作れるのよな。でも私はロゴつくるのが得意じゃないし、そんなに好きでもないし、あとは屋号を人につけてもらったり、ロゴを依頼したりすることへのあこがれがあったから。
あのロゴで、刺繍のタグも作りたいねんよな。巾着の脇んとこにタグ付いてるのとか、かわいいやん?あれいくらぐらいするんやろ。高いんやろな。
看板も、立て看板みたいなのを作ってもいいかも。蝶番でパタンと閉じられるやつ、作れるかな。でもその前にポップと値札が要るよな。ポップってどういうのが要るかな。「人気」とか「今月の新作」とかでいいんかな。
お店屋さんごっこ楽しい。時間ない。

坂道を上って家に帰るのに飽きてきたのだけど、ある程度歩く時間を確保したい気持ちがあり、最近は朝、坂道を下って会社に行くのを試している。歩く距離は変わらないし通る道だって同じようなものだけど、朝のほうが街全体が空いているし、ほどよく新鮮な気持ちになってうれしい。小学生がいっぱいいてびっくりする。小学校って何時に始まってたっけ。8時半とか?
今朝はゴミ収集車が左折するのを待っていたら助手席に乗っている人が「ありがとう」と言って会釈したのが見え、会釈し返したら、隣で同じように左折を待って会釈を返した人とも目が合い、自然に「おはようございます」と言い合ったのがよかった。こういうなんでもないことが、明日には忘れるようなことが、人に話すほどでもないことが、毎日起きてほしい。ゴミ収集車は燃えるゴミを集める日だから忙しいだろう。頑張ってください。
あとは吉野家で焼き鮭の朝定食を食べ、お会計をしてもらう段になり、支払い方法がたくさんあるので混乱し「あ、現金で、いやクレジッ、あっクイックペイも使えるんか」と挙動不審になっていたら、外国人の店員さんに「焦らないで」と言われて楽しかった。「大丈夫、待つ」とも言ってくれた。優しい。優しいし、日本語が本当に上手だ。
暑くなるまでは朝歩くようにしようかな。暑くなってきたら、帰りに歩いて帰宅即風呂!が良い。

leisurely

2025年4月1日 (火) 20:46

uncategorized

なんやかんやでガチャガチャやってたら2025年度を迎えましたね。「年度」って別に関係ない人からしたら本当に関係ないものなんだろうな。って超当たり前のことを言ってしまった。
私は「年末」よりも「年度末」のほうがさらにバタつくので、「年明け」より「年度はじめ」のほうが「あけましておめでとうございます」感があります。

エイプリルフールってもうどこに需要があるのか分からないぐらいのものだと思うけど、まだやってるな。「嘘をついて良い日」ってなんなんだろう。だってそもそも「ついて良い嘘」などなくない……?いや、こんなん真面目に言うことでもないよな。でもなんか、毎年モヤッとはする。私だけか。
企業のSNSアカウントとかでやってる嘘の商品情報を流すやつとか、あれは、おもしろいのか。あの、こういうのを大真面目に「あれ何がおもしろいんですか?」と言ってるのもつまらないよな。かといってあれを真正面から「おもしろいね」って言ってる人もつまらないし、本当に全方位つまらなくないか。それにさ、まじでその商品が販売されると思って「ルン♪」としたり、あと、アーティストとかがほんとに活動を終了してしまうんだと思って「シュン……」としたりする人の気持ちを、「エイプリルフールでした~!」で済ませて良いと思ってるってことでしょう。「エイプリルフールです」って言いさえすれば。それで「え、信じたんですか、エイプリルフールですよ、分かるでしょ」って言って良いと思ってるってことでしょう。
やだな。正誤の話ではなくて、単純に嫌いだわ。気色悪い。私、エイプリルフール嫌いです。

どっちにしてももう灯油がないのでストーブをしまおうと思うのだが、ここ3日くらいすごく寒い。寒くたって灯油がないからストーブを出していても意味がないって頭では分かっているのに「だってまだこんなに寒いのに」と思ってしまう。でももう灯油がないんだってば。桜も咲いたのに、今年は結構ダラダラ寒いね。

韓国旅行がわりと目前で、慌てて予定を立てている。今回は5泊なので、中4日分ある(うれしい)。あまり細かく予定を立てる気はないけれど、美術館はだいたいどこも月曜が休みだし、平日しか開いていない飲食店もあるし、把握しといたほうが楽しいだろう。今回は郊外にある陶磁器のセレクトショップに行くことと、自転車に乗って漢江を渡ることを目標としている。お天気が良いといいんですけど。そんなことより山火事は大丈夫だろうか。規模がすごく大きいみたいで心配している。鎮圧して終わりってわけにいかないだろうし……

韓国から帰ってきたら手しごと市の出展があるので、準備を……と思うけど、こういうのって具体的に何を準備すればいいんだっけな。デカめの布が要る(テーブルにかける)ことはデザフェスの経験から知っているので、母にミシンをお願いした。こういうタイプのイベント出展は10年近くぶりと思う。
こんなに長期的かつ計画的に在庫を増やしたことがないので、すごく楽しみではある。自分が買う側だと「これも良いし、あっちもかわいい、どれにしようかな、あっ色違いもあるのか」みたいな感じになってると楽しい。つまり「選ぶ」のが楽しい。結果として買わなくても「買うならどれかな」って考えるの、楽しいでしょ。
丸1年分かかってコツコツ作り溜めたので、選んでもらえるだけの物量になってると思う。うまく見せられると良いんですが。頑張ります。
10年前とかってあんまりコツコツ作り溜められなかったな。あれどういう理由やったんやろ。ガッと作ってガッと売る、みたいなのを繰り返してたし、気が短かったな、と思う。……年齢か。年齢かも。今度はもう少し気長にやりたい。

テアトルパピヨン

2025年3月21日 (金) 20:00

uncategorized

自宅の見学会が行われることになった。リノベーションをやってくれた会社から連絡があり、「何度か相談会に来てくれた人たちを対象に、田中さん家の見学会をしたいんですけどどうですか」みたいな話だった。私が家を買ってから6年が経つ。もうそんなになるか。早かったな。
家は今もすごく気に入っているし、打ち合わせは毎回楽しかったし良い思い出ばかりなので、事例として参考にしてもらえるならぜひぜひ、と思う。
が、家は竣工当時に比べたら物が増えているし、隅々まで掃除が行き届いているとは言い難い。慌てて掃除を始めたら「服こんな要る?」モードが発動してしまい、あっという間にゴミ袋2つが完成した。窓も気になって拭き掃除をしたけど、腕がバッキバキ。窓の多い家よ。
物は買うより捨てるほうが遥かに面倒だということを肝に銘じて生活しようと思う。分かってるけど忘れるねんよな~思い入れとか愛着とかって、物そのものとは別なのに、どうしてもいっしょくたになってしまうね……かといって、生活に要るものだけが必要最低限ある家なんてまっぴらごめんだ。そんなのはミニマリストにやらせておけば良い。私は愛着と執着で巣みたいになっているのに一見片付いている、みたいな家をやります。年に一回使うかどうか、みたいな皿だって捨てないし、花がいけられていない花瓶だって捨てない。

お弁当を持っていくようになった、という話をすると「えらい」「すごい」とたくさん言ってもらえる。会社の周りにある飲食店に行き尽くして、心底飽きたから、という消極的理由だし、ジップロックコンテナに適当なスープか炒め物を入れているだけなのだけど、どうも「自炊しているのがえらい」という価値観があるのだと思う。一方で、毎日3食家族全員分の飯を煮炊きしている母が「えらい」「すごい」と褒められているのを、実家で暮らした18年間で一度も見ていないんじゃないかと思う。なんだこの不均衡は。私は自分の飯を自分で作っているだけだが、母は人の飯も、自分は食べない人の分の弁当まで作っていたのに。しかも無償で。
ちなみに私の今日のお弁当は温泉卵(炊飯器でまとめて作った)、納豆(パックのまま)、かつおぶし(小分け袋のまま)、冷凍ごはん、インスタントのお味噌汁(わかめが少ないので足す)である。これでも「えらい」し「すごい」のだとしたら、母が作ってくれていたお弁当は紫綬褒章ぐらいもらってないとおかしい。

先日、友人とクッキーを買いに出かけた。「今って詩がなさすぎる、日本って全然詩がないよ」という話が友人に通じて、すごく嬉しかった。こういう感覚的な、しかも肌感覚的な話をするのは結構怖いことだ。大抵の場合、そもそもの話自体が通じないし、通じたとしてもこんな話に出口はない。私も別に解決策なんかを求めているわけじゃないし、なんというか、種しかない話だからだ。肌感覚の域を出ない話なので、「例えばどういうこと?」とか聞かれても困る。話しておいて何か聞かれたら困るなんて、無茶苦茶だと自分でも思う。でもそういう話ってあるでしょう。
友人はこの種でしかない話を理解し、かつ同意して、「でも元々は詩があったはずやんな、だって和歌の国やのに」と言ってくれた。うれしい。
日本にはいま詩がない。そのせいでひもじく、貧しく、奥深さがないんじゃないかと思う。なんでも二項対立の構造にして、ぜんぜん詩的じゃない。韻も踏めないし、波が生まれないから、リズムとかメロディーとかグルーヴが生まれない。詩がない。詩を取り戻すにはどうすればいいんだろうな。

THE ORIGIN OF LOVE

2025年3月10日 (月) 19:43

uncategorized

来週シルクスクリーンの作業場に行くので、版下を作った。自分でも不思議だけど、まだ作りたいのがあってびっくりする。ネタ切れみたいな状態になるかな、と思っていたのだ。全然ならない。
「また同じようなのを描いてるな」とは思うけど、これについては意図的に気にしないことに決めた。自分が同じようなのを描くことに飽きててつまんないなら問題だけど、そうではないのだから、気にしたってどうにもならない。気にしたってどうにもならないことを気にしている時間があるなら手を動かすべきだと思う。手を動かす以外に、ものを作る方法はない。

ベーグルを焼いてみた。思わず「こんだけ?」と声に出してしまうほど材料が少なかった。油も使わない。うっすら味付けした強力粉をお湯で練ったのを焼いただけの食べ物……なにこれ。焼く前に茹でる、という工程もある。なにそれ。ケトリング、というらしいのだが、ベーグル独特のむぎゅっとした食感を作るために重要らしい。生地を茹でる、という工程がある小麦粉料理はめずらしいと思う。うどんとかすいとんとかは小麦粉を茹でるけど、あれは加熱の工程やから全然違うもんな。焼く前に茹でるってなんやねん。不思議。
お菓子と違って手でこねる工程があるのも楽しい。ベーグルは生地がかたいのでこねにくいけど、やりがいがある。徐々につるんとしてくるのもかわいいし。
成形がむずかしくてあまりうまくできなかったけど、最初から成形がうまくいくことなんてないから気にしない。シュークリームだって最初は成形が難しかったもん。
味はとってもおいしかった。250gの強力粉で4個出来た。焼きたてもおいしいけど、せいろで蒸してあっためたのがすごくおいしい。クリームチーズとはちみつを挟んで食べた。

今週はフォカッチャを焼いてみた。ベーグルよりもっと簡単。夜、生地をつくっておいて冷蔵庫で発酵させ、朝起きたら焼く、という感じ。ほとんどこねなくて、ゴムベラでぺたぺたやるだけ。あんまりおもしろくはない。レシピでは「なんでも好きな具をのせたらいいよ」みたいな感じだったので、去年のフジロックのときに新潟で買ってきた温泉水の塩とローズマリーをのせて焼いた。フォカッチャってローズマリーが植えてあるイメージある。
おいしくできたけど、お皿に入れて焼いたせいで底面がめっちゃくっついた。オリーブオイルを塗っておいたけど、あかんかったみたい。次はクッキングペーパーを敷いてみようと思う。

ベーグルにしてもフォカッチャにしても、もっと美味い粉を使う必要があるな、という感じがヒシヒシした。お菓子は「バターと砂糖とたまご入っとんねんから美味いに決まっとるやろうが」という大前提があるのに対して、パンは「小麦粉と水しか入ってないのにどうしろと?」みたいな感じがある。美味くなる要素が少ない。もっと美味い粉を使う必要がある。

映画館で『ウィキッド』を観た。素晴らしかった。拍手したかったけど、恥ずかしくて……観るまで知らなかったけど、続編があるみたいだ。オープニングで「Part 1」と出てたよ。2まであるってことでいいんだろうか。
私は劇団四季のウィキッドを観たことがあるので、話の筋とか曲は知っているけど、それでも楽しめたし、とっても満足した。アリアナ・グランデもさることながら、シンシア・エリヴォの歌声が素晴らしかった。声だけで泣いちゃう。ミシェル・ヨーもぴったりで、良かったね。
一番泣いたのは、パーティーに来たエルファバがひとりで踊り出すシーン。意地悪な視線に晒されながら音楽もなく踊るエルファバに、グリンダが理解や共感を示して一緒に踊り、寄り添うシーンなのだけど、ちょっと乱暴に見えるぐらい「理屈なし」のシーンで、それがとても良かった。私は無自覚に「理解や共感には理屈が必要」だと思っていたんだなと気づいた。それこそ理屈なく、「そういうものだ」と思っていた。でも違った。違うと気づいた。エルファバはなぜ踊るか説明しないし、グリンダは踊る彼女から何をくみ取り何を理解したのか説明しない、すごく良いシーンだった。誰も何も説明しないのに、ふたりは友だちになるのだ。理屈も理由もなく、人は人を理解できるんだなと思うと、それってすごい希望じゃないですか。こういう希望って、映画にこそ与えられたいと思ってしまう。
あえて理屈っぽい解釈をするとすれば、グリンダが周囲から日々浴びている「好意」と、エルファバが周囲から日々浴びている「嫌悪」とは、「記号的である」という点で本質的には全く同じものであり、同じものを大衆から向けられている人間の気持ちを、グリンダが分からないはずない、というシーンだったと思う。「嫌悪」を浴びてもはや踊るしかないエルファバを見て「あの人は他人からどう思われてるか気にならないんだな」と言えるフィエロに対して心から「違う、分かってない」と返せる人は、あの場ではグリンダただひとりだけだった。
あと、私は「生まれながらにして精神的に強い人なんかおらん」と思っているので、そういう意味でもあのシーンは嬉しかったな。自分が抱きしめられたような気持ちだった。

観たい映画が立て続けに公開されるので、毎週映画館にいる。よく行く映画館が改装中なんだけど、全然好みじゃない建材で表面だけキレイにされていて悲しい。映画館の内装なんか、と思う人もいるだろうけど、私は毎週行く場所に全然素敵じゃない塩ビシートが貼られているの、普通にしんどいよ。
浴びるほど金を稼いだら映画館をやりたい。ロビーはクラシックなホテルみたいにカーペット貼りにする。濃紺か深いグリーンも良いし、思い切って赤にするのもいいな。でも壁にも色を使いたいからな、どうしようかな、ちょっと考えさせてください。艶のある木製のチケットカウンターにして、窓口の数だけペンダントライトをつける。映画館オリジナルのグッズも作りたいし、売店でポップコーンとホットドッグと、あとおにぎりも売るぞ。おにぎりのほうが腹持ちがよくない?餅系のフードも売りたい。ロビーはチケットカウンターのところ以外はもっと暗くて良いと思う。手元にパンフレットを読める程度の明かりがあれば、あとはもっと暗いほうが落ち着くし、天井も低めにしたいな。
わぁ映画館めちゃくちゃやりたいな。でも初期費用というより維持費用がすごいかかるだろうな……あと興行の仕組みが全く分かってないわ。映画館てどうやったら作れるんやろ。調べてみます。

不味不味

2025年3月8日 (土) 16:53

uncategorized

タイプロを、全部見終えた。最終審査まで残った俳優部のおふたりが、良くも悪くもケア要員的な立ち位置になってしまうことが気にかかっていたが(まぁ年齢的にも経験値的にも仕方ないのだろうけど)そういう部分も含めてきちんと評価されたうえでメンバー入りになったのが、なんか良いなと思った。こういうの、なんか「すごく感謝しています」みたいなことで済まされがちじゃないですか?言ってること分かる?なんかさ、能力だけ借りて、借りるだけ借りて、「本当にありがとう!!!とっても助かりました!!!」みたいなので終わりにされること、結構あるでしょう。あれムカつくねんよな。人の努力の賜物をラッキーオプション扱いしてタダ乗りすんなよ、と思ってしまう。正しく対価を払え、払えないなら使うな。
オタクは変化を嫌う生き物なので、既存ファンのみなさまのお気持ちを思うと苦しさもある。だって例えばバンタンから2人抜けてさ、メンバー追加オーディションやるわ~ってなったらさ、それだけでもう既につらいもん。名前変えて5人増やして、でも既存曲もやりますって、だいぶつらいよ。もちろん受け入れられなくて降りたファンも少なくないだろう。それでも自分なりに落としどころを見つけて、これからも応援しようと思ってくれるファンの人たちに、支えられる部分は今後も大きいだろうな。胸が苦しいよ。
それにしても、オタクの変化の嫌いっぷりったら尋常じゃないよな。私だって正直に言えばバンタンは宿舎でいつまでも7人一緒に暮らしてほしいし、グクは永遠に赤ちゃんでいてほしいし、食後のラーメンを8人前茹でて7人でガツガツ食べていてほしいもん。相変わらずだな~とか言ってニコニコ安心していたい。でもそうはいかない。そうはいかないからこそ、美しいと思う。永遠ではないものを、まるで永遠みたいだと感じるから、美しいんだと思う。「最近胃もたれしてラーメンとか食えない」って笑うバンタンを見るためにも、長生きしたいな。

映画館で『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を観た。ボブ・ディランの伝記映画。私ボブ・ディランてほとんどまったく通ってないけど、通るべき道だったのを通り過ぎちゃってるんじゃないか、という気持ちになった。ジャズもそうだったけど、フォークも「どこから入ればいいかわからない」感じがあって、通り過ぎて生きてきたと思う。あと途中で出てきたエレキで弾き語りする人、めっちゃ前野健太やん?と思ったけど、たぶん普通に逆やねんよな。前野健太があの人の先におるねん、あの人名前なんやっけ。映画館だと一時停止してメモが取れないのがつらい。
「どこから入ればいいかわからない」ものは大体「そもそも入口らしき入口がない」のだと思う。でもこういうのは経験上知ってる、こういうのはな、どこから入っても大丈夫なやつ。
ボブ・ディランに限らず、なんか「良い人であってほしい」みたいなのを背負わされる人は大変だな、と思った。良い人で、お行儀がよくて、ウィットに富んでて、キレ者で、あふれんばかりに才能があり、でも腰は低く、穏やかな性格で、みたいな、人前に立つ職業の人全員にそういうのが求められてるなぁと思うけど、もしかしたら別に最近そうなったってわけでもないのかしら。どう思われてるか、が具体的に表面化されて、双方が閲覧しやすくなったってだけで、もしかしたら1950年代からずっと変わってないのかも。困ったね。
でも本当にそんな無味無臭の品行方正な人だったら、音楽なんかやらずに生きて死ねると思うけどな。音楽とか、詩とか、物語が要る人が、そんな大した人間であるはずがないと思う。みんなの期待に応えられるような人だったら、何を望まれてるかきちんと理解できて、その通りに生きられるような人だったら、物語なんか必要なかった。私もそうだよボブ・ディラン。一緒くたにしてごめん。

映画館のサブスクがあったら入りたい。大赤字だろうから、実現しないと思う。いくらぐらいだったら入るか考えたけど、年額5万だったら余裕で入る。7万でも入るな。10万だと悩む。
でも映画館がサブスクだったら、1回観た映画をもう1回観るハードルがかなり下がるだろうな。あまり間を空けずに2~3回観たい映画ってあるよね。

夜、頼まれごとに取り掛かる。楽しいことを頼んでもらえてうれしい。私はアーティストではなくデザイナーなので、求められることに応えることが仕事と言える。それが出来ているかどうかは判断が難しいが、まぁ15年食えているということは「まずまずの出来」ぐらいの評価は得られているんだろうと思う。そう思いたい。

傍に立つ

2025年2月26日 (水) 20:50

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遅ればせながら、timeleszのオーディション番組、通称タイプロを見ている。
そのうち見よう、完結したら見よう、と思っていたが、どうやらすでに完結し、新メンバーを加えての活動が始まっているようだったので、追っかけで見始めた。思ったよりボリューミーで、18エピソードある。5次審査まで見たのであと少しです。あと2エピソードかな。ここまで来たらネタバレ踏みたくないけど、Twitter見ないしテレビもつけないので、全然余裕な気がする。

私はtimeleszについてそこまで詳しくはないものの、既存メンバーの顔と名前は一致している。デビュー時に「とんでもねぇグループ名やな」と思ったぐらいで、ただし嵐との関係性もあるグループだったので、目にする機会は多かったように思う。メンバーの活動休止や脱退のニュースも知っていて「たくましい子たちなんだな、頼もしいな」と思っていた。
人間が人間同士でやることに「絶対」や「永遠」は無いと知っているので、グループで活動することの大変さや難しさはよくわかる。グループに残る人たちが、続けていくということを選択して、続けていくためにも新しいメンバーを迎えたい、仲間探しをしたい、というのがプロジェクトの発端らしい。どうすれば続けていくことができるか、どんな方法があるか、たくさん考えたんだろうな。こういうのって、去る人より残る人の方がダメージが大きいように思う。去る人が楽だって言いたいわけではないけど、でも辞めるより、続けることの方がストレスがかかるんじゃないか。えらいな、自分の人生を、自分でちゃんと考えてて、えらいな。当たり前にできることじゃないと思う。

タイプロを見ていると候補生うんぬん以前に、既存メンバーがみんな、それぞれに自分たちの仕事に愛とプライドを持っていて素晴らしいなと思う。自分たちがやってきたことや積み重ねてきた経験に愛着があり、プライドがあることが、ちゃんと伝わってくる。これって、ファンの人にとってもうれしいことだろうな。自分が愛したグループが、メンバー自身にもちゃんと愛されているって、うれしいもんね。きっとファンからの反発は大きかっただろうし、離れていくファンだって少なくはなかったかもしれないけど、でもこんなふうに実直で、誠実な姿を見ていたら、応援したいと思う人がたくさん増えるだろう。こうやって映像に残っていることで、一度離れた人たちにも、いつか伝わるかもしれないと思う。そうだといいな。
事務所の先輩たちへのリスペクトが常にあることも素晴らしかった。いろいろあったし、まだ渦中なので肯定も否定もできない事務所ではあるけど、でも所属する人たちがこれまでにやってきたことや積み重ねてきた経験が揺らぐものではないよな。既存メンバーが先輩たちに抱くリスペクトだって、変わるものではないのだと思う。自分が憧れた先輩たちが拓いた道を自分たちも歩いているし、そのことを候補生にも同じように理解して、尊重してほしい、それが出来る人に仲間になってほしいと思う気持ち、すごくよく分かる。

4次審査から参加した俳優部の人たちも良かった。
正直「え、そんなシード権みたいなんアリ?そもそも聞いてないけど…そんなん最初に言うとかなあかんのちゃうん…」と思ってなんかちょっとヒヤッとしたけど、彼らの実力を見るともう何も言えない。歌もダンスも群を抜いているし、何より立ち振る舞い・所作がまったく違う。人に見られ慣れているし、何をどうすればどう見えるかみたいなところに自覚的だなと感じる。まじで素人と全然違う。
私がまだ見ていない2エピソードでどう展開するのかは分からんし楽しみだけど、他の候補生にかなり刺激的な影響を与えていると思う。私は寺西拓人さんを応援しています。

あとは菊池風磨さんを見ていると、刻み込まれたDNAのように櫻井翔イズムを感じて、めちゃくちゃグッときてしまう。話し方、立ち姿、語彙から所作に至るまで、ぜんぶに翔くんを感じる。もはや見える。スタンドみたいな。
私が菊池風磨さんご自身より翔くんのことを知っているからそう感じるだけなのかもしれんけど…でもふたりはすごい仲良かったよな、たしか。大学も一緒やった気がする。もともと似てるとこがあるんか、と思わなくもないけど、でもそんなレベルかな……似た要素がある、程度のことならあんなにイズムを感じないような気もします。

あと2エピソードなのだから、普通に全部見終わってから書けばよかったな。ふはは。

futura

2025年2月25日 (火) 19:57

uncategorized

甥1が「あのな、こないだバックトゥザフーチャー観たで、めっちゃおもろかった」と言っていた。私は「フューチャーな、フュ」と訂正しつつも、同じ映画をみて同じように「めっちゃおもろかった」と言い合えることがうれしいと思った。私も甥1と同じ5歳か6歳のときにバックトゥザフューチャーを観たし、同じように「めっちゃおもろい」と思ったのだ。記憶もある。

甥1には「バックトゥザフューチャーめっちゃおもろいよな、あれよりおもろい映画ないで、あれが世界でいっちゃんおもろい映画」と言っておいた。両親は「そんなことないやろ」と言って笑っていたが、私は大真面目だ。あれよりおもろい映画があったら教えてほしい。無いと思う。あれより好きな映画、感動した映画、グッと来た映画、心に残っている映画、思い出深い映画、などは挙げられるかもしれないが。
バックトゥザフューチャーほどドキドキわくわくして、キャラクターが魅力的で、ストーリーがおもしろくて、何回観ても楽しめて、絵面も素晴らしい映画、まじで他になんかある?あったら知りたい、教えてほしい。

長編映画を観られるようになってきた(おそらく区切りながらではあるけど)甥たちは、ディズニー、ピクサーまわりの映画を繰り返し観ているようだ。実写の洋画を観たのはバックトゥザフューチャーが初めてなんじゃないだろうか。次に観てほしい映画を考えるとワクワクする。が、あんまり口出ししたくない気持ちもある。エゴが過ぎると思う。
そうなると、意図せず映画と出会う機会のひとつである金曜ロードショーはありがたいものだなと思う。今はサブスクで山のように映画が見られるけど、アルゴリズムに左右されずに映画と出会うことも同じくらい大事だと思う。

4月にまた韓国に行くことにした。3月は毎年しんどい仕事が多いので「これが終わったら旅行」と思えるように、4月にした。ちょうどジンエアのセール期間だったので、いつもの半額以下くらいの航空券が買えた。ラッキー。夕方の便になっちゃったからちょっともったいないけど、まぁ良しとしよう。そのぶん高い宿にしよっかな!と思ったけど、2万くらい上げても、そこまで大きな差にはならないのでスルーした。去年泊まったエリアとは違うところにしたので楽しみ。毎回違うところを拠点にしたら楽しいだろうな。美術館にたくさん行こうと思います。

nothing is real

2025年2月12日 (水) 20:59

uncategorized

飛び地的な祝日を有意義に過ごせると得をした気持ちになる。寒波でやばいので家にいようと思っていたけど、目覚ましもかけていないのに7時半に目が覚めた。こういうとき「年取ったなぁ~」と思う。夜ふかしもできないし、10時間睡眠とかもできなくなった。生活がどんどん朝型になる。朝5時に散歩する爺さんの気持ち、めっちゃ分かる。多分私もそうなる。

布団の中で映画館のスケジュールを確認し、今日は「リアルペイン」を観に行くことにした。

昨日届いたSTAND OILのかばんを持って出かける。STAND OILはずっとかわいいと思っていた韓国のブランドだ。9月に渡韓したときお店の前までは行ったけど、結構並んでたから入るのを諦めたのだった。また行けばいいや、と思っていたけど、先週うっかりネットで買ってしまった。悩んだけどBUTTER BAGっていう、四角いのにした。黒か茶色が使いやすいかな~と思ったけど、BUTTERなので黄色にした。ほんとにバターみたいな、こっくりした黄色。かわいいかわいい。

「リアルペイン」はとんでもなく好みの映画だった。ジェシー・アイゼンバーグが脚本を書き、監督し、出演している。前作が好みだったので、たぶんこれも好きだろうな~と思って観たけど、予想を大きく越えてよかった。
派手か地味かで言えば、圧倒的に地味な作品ではある。ジェシー・アイゼンバーグがどういう人なのか詳しく知らないけど、過去の出演作を見るに、派手な映画は撮らないタイプじゃないかと思う。前作も地味ではあった。ただ、本当に思慮深い人なんじゃないかと思ったりもする。
ストーリーの大筋は「従兄弟とふたりで祖母の故郷であるポーランドを旅行し、史跡をめぐるツアーに参加する」というもの。大事件は何も起きないのに、私は笑ったり泣いたり忙しかった。
祖母がどうにか生き延びたその先に自分たちがいること、従兄弟が自殺しようとしたこと。ガス室で殺されたユダヤ人、睡眠薬で死のうとした従兄弟。強制収容所を訪れること、そこへ行く道中で一等車に乗ること。みたいな、相反すること、あらゆる矛盾についての映画だったと思う。愛することと憎むことは残念ながら表裏ではないし、同じ強度で共存する。でもそのことを認めると整合性が取れなくなるあの感じ、いや、整合性など元から取れていないことに気づいてしまうあの感じが、映像になってそこに置いてあった。
なんにでも説明がついたり、オチがついたりすると思っていられた頃はよかったな。そんな頃なかったか。
シーンが空港で始まって、空港で終わるのも良かった。繰り返すものが好きなので……あと私は空港も好きだ。人が通り過ぎるところが好きだし、音がもこもこするのも好き。

こういう映画、宣伝が難しいだろうな。「リアルペイン~心の旅~」と副題が付いてるけど、これは余計だと思う。ごめん。でも「リアルペイン」と言われて「わぁおもしろそうな映画!絶対観に行きたい!」とはならないだろう。かといってこういう、観ればタイトルの意味が理解できる系の映画に邦題を付けるのは難問中の難問でそれこそ野暮だし、せめて副題でも付けようか……と思う気持ちもよく分かる。
「この旅の先に、僕らは未来を見つける」というキャッチコピーも苦しい。この映画のエンディングで「未来を見つけ」てたとは思えないし、そもそも「未来」て「見つける」ようなもんか?生きていれば良くも悪くも勝手に来るのが「未来」であって、作中でデヴィッドとベンジーが苦しいのは「未来を見つけ」られないからではなくて、どうにもならないものを抱えて生きているからじゃないのか。とはいえ何かキャッチコピーを付けてこの映画を説明しようと試みる気持ちは理解できるし、私が他に良いのを提案できる気もしないが……
ものを作るのって大変だけど、それを宣伝したり、紹介したりするのだって同じくらい大変よな。

映画のあとはユザワヤへ。春に手しごと市に出ることにしたので、ブースに使う布を買いに行く。事前に要る布のサイズを計算していなかったので、結局買わずに退散。お店はのすみっこで電卓をたたき「7m要るな……?」と考えていたけど、家に帰って落ち着いて計算したら4m50cmで十分足りる。アホの計算。

帰りに元町の好きな韓国料理屋で、お惣菜を買って帰った。いつもキンパを買うけど、今日はいろんなお惣菜がちょこちょこセットになっているのと、チャプチェにした。どれもおいしい。このお店がずっとここにあってほしい。

夜、友人が送ってくれた苺が届いた。今年の年賀状に「苺を作り始めた、良いのができてるからよかったら送るよ」と書いてくれていたのだ。すごくうれしかった。ただの社交辞令だと思えばそうかもしれないと思ったけど、でもこういう優しさとか、ほっといたら絶えるような交流とかを、ちゃんと握りしめて生きたい。ま、そんな大げさな話じゃないけども。ただの食いしん坊です。私は今年最初に刷った苺のハンカチを添えて「苺うれしい、大好物!待ってるね」と手紙を返した。
私はその友人が送ってくれる年賀状が毎年すごく好きだ。絵も字もかわいいし、絶対に私には作れないものが詰まっている。私が練習したり、真似したりしても、永遠に手に入れられないものだけで出来ているのだ。いいな、こんなのが描けて、いいな。
届いた苺は、白い緩衝材の上にきれいに並べられ、つやつやと光っている。こんなにたくさん!!?と焦るぐらいの量だったけど、このために空けておいたみたいに冷蔵庫の野菜室はすっからかんだった。
さっそく食べてみると、すごくおいしい。甘いけどすっきりしている。さっぱりした甘さ。大きめの口で食べても3口分はあるぐらい一粒が大きい。あの子こんなん作れるんや、すごい、これって作れるもんなんや……と、しばしボーっとした。食べものって、おいしいときすごいボーっとなる。しかも、こういう何の調理も加工もしていない、素材そのままのおいしいものってすごみがある。神々しいな……と思いながら、キッチンで立ったまま3個も食べた。食べ過ぎ。
お礼に何を送ろうかな、私も何かおいしいもの送りたい。何かリクエストがあるか聞いたら「姪っ子たちが喜ぶものがいい」とのこと。かわいい。

不都合回避型有神論者

2025年2月6日 (木) 21:04

uncategorized

私はチョコレートを買うために有給休暇を取るような女だ。買ったチョコレートは基本的には配ったりもせず、1ヶ月以上かけてちまちま食べる。母に会う予定があれば少しお裾分けする程度。私が食うために私が買う私のチョコレートなので……(真顔)
一度だけ、好きな男にチョコレートを買ったことがある。焼き鳥屋で渡したら、すぐに箱を開けて、ひと粒食べていた。あれかわいかったな。まだ焼き鳥を食べている最中か、注文した焼き鳥が提供される前か、ぐらいの謎のタイミングだったので、冷静に考えるとおかしい。「開けてもいいですか?」くらいまでは理解できるけど、あのタイミングでひと粒食べるのはおかしい。
私も私で、渡すタイミングがおかしい。焼き鳥屋でチョコレート渡すなよ。

百貨店の10時開店にちょうど間に合うように出かける。有休を取ったのに「出社っぽいな」と思う。
これは悪口などではなくただ純粋な疑問だが、こんなに数多くのショコラティエが集まっている催事場で、クラブハリエとオードリーに並ぶのはどういう理由なんだろう。どっちもお店があるやん。つまりその、いつでも買えるやん。この時期限定のものがあるの??オードリーは本当に、シャレにならんぐらい並んでいます。まぁ関西にオードリーの店舗ないけど……でもオンラインショップがあるやん。いつでも、買えるやん。

甘いものを見続けた結果、小腹が空いた。チョコレートは買っただけでまだひとつも食べていないのに、しょっぱいものが欲しくなって阪神のスナックパークでいか焼きを食べた。いか焼きっておいしい。たこ焼きより好きかも。お好み焼きより軽いぐらいのサイズ感もちょうど良いと思う。
昔、阪神電車のホームにいか焼きのカウンターがあって、ライブの帰りにつねちゃんとよく食べた。待てよ、この店があの店?そうかも。

美術館に行くつもりだったけど寒すぎて元気がなくなり、サクッと帰ることにした。映画を観てもいいけど、それなら地元で観たらいいし。
三宮に着いたら雪が降っていた。めったに雪が降らない(積もらないだけでなく、ほとんど降らない)街なので、浮かれたおじさんたちが雪の写真を撮っていてかわいい。大慌てで折り畳み傘を出すお姉さんもかわいい。案の定、5分もたたずに雪はやんだ。

本を持ってきたのでにしむら珈琲で読んでから帰ることにした。ホットケーキを注文する。にしむら珈琲のホットケーキはなんとなく和菓子を思わせる甘さで、1枚でもじゅうぶんお腹いっぱいになるサイズのものがどどんと2枚のっている。焼き目のサクサクした感じが、瓦せんべいに似ている。
別皿でバニラアイスクリームもついている。アイスが付いていることは書いていないので、毎回「いいの?アイス、くれるの?」と思う。なぜメニューに「バニラアイス付」と書かないんだろう。アピールポイントだと思ってないってこと……?個人的には溶けたアイスクリームのベタッとしたのが好きじゃないので、ホットケーキの上にのせずに別皿でくれるのが、かなりポイント高い。のせたい人は自分でのせられるし、別で食べても良い。私はホットケーキにメープルシロップをかけて、それが染み込むのを待つあいだにアイスを先に食べてしまう派。

横の席に座ったおばあちゃんたちが店員さんを呼び止めて「ちょっとお腹空いてるんよ、何食べたらええやろか、なんか分けて食べよか」「何食べたらって聞かれてもなぁ、困るやんなぁお兄ちゃん」と言っている。”お兄ちゃん”はさして困った様子もなく、「サンドイッチは分けて食べやすいんじゃないですか、僕はこれが好きです、おいしいですよ」と答えていた。こういうの、健やか、と思う。だってこんなのは店員さんの育成マニュアルに絶対載っていないから。彼が「これが好き、おいしいよ」と答えたのは、店員さんとしてのキャラクターではなく、彼そのものなのだ。社会に出るとみんな役割があり、キャラクターがあり、それに沿った行動や言動を求められることが大半だけど、それはそれで、あのお兄さんにはあのお兄さんの好みがあり、人生がある。そういう当たり前のことが、無いものみたいに扱われずにそこにあると、健やかだな、と思う。

左隣の席の男の子たちは韓国語で会話をしている。旅行中なんだろうか。お若いし、留学生かも。リアルの韓国語に触れる貴重な機会なので、めちゃくちゃ聞き耳を立ててしまう。ごめん。かろうじて単語や短いフレーズは聞き取れるが、文章はやっぱりほとんど理解できない。引き続き頑張って勉強します。
男の子たちはケーキをふたつ分け合って食べ、時々「おいしい」「これなんや、ようわからんけどおいしい」「とにかくおいしい」「やめろ全部食うな、ひと口だけ残してくれ」とボソボソした声で言い合っていた。仲良しでかわいい。
韓国語で「とにかく」は「암튼(あむとぅん)」と言う。響きがかわいくて好き。

夜、シルクスクリーンで使う版下を作りながら令和ロマンのラジオを聴いていたら、いつ配信された回か分からないけど、嵐の話が出ていた。リスナーのお便りを受けての、「SMAPは会見とかあったし結構衝撃だったから、もう再結成とかないんだろうな~と思うけどさ、嵐はなんか、なんでだっけ、嵐なんでやめたんだっけ」「やめたんじゃないんじゃない?解散とかじゃないってことじゃないの?」みたいな話だった。
その話を聞きながら、今テレビが本当に楽しくない感じになって、殺伐として、ぜんぜん朗らかさとか、救いがない感じがするのって、嵐の不在が大きいよな、と思った。別に嵐がいれば解決する!みたいな暢気な話じゃなくて、ただ、今テレビつけて嵐がいて、5人で楽しそうにしゃべってたら、ほっとするだろうな、みたいなことだ。何も解決しなくて、事態が好転したりしなくて、現実には何も動かなくても、嵐が5人で笑ったり歌ったり踊ったりしてたら、ひと息つけるんじゃないか。
櫻井翔くんが、嵐が(たしか)15周年のときのインタビューで「パフォーマンスが、とか、ハーモニーが、とかじゃなくてさ、ただ仲良いのが好きですって言われるのが、なんか違う気がした、仲良いのが売りですって、なんだよと思って」みたいな話をしていたのを思い出す。翔くんはその話をしながら眉間に思いっきり皺が寄っていて、当時は私も「まぁそうだよな、こんだけ長く続けて、ずっとステージに立って、毎年アルバム出してツアーやって、まず“仲良い”を褒められて、それを求められるって、そら納得いかんよな、ごめんよ」と思ったのだった。
でも今となっては、あなたたちが“仲良い”ことが、どれだけすごいことだったかを、言葉にできる気がする。それこそパフォーマンスが優れていたり、ハーモニーが美しかったりすることと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、あなたたちが“仲良い”ことは素晴らしく、美しく、かけがえのないことなんじゃないのかな。あなたたちが“仲良い”ことに価値があり、みんな救われてたんじゃないのか。
ま、それを生身の人間にやらせて、しかも子どもにやらせて、何十年もやらせるの、どうなんや、とも思う。人を救うのは人であってほしい、とも思うけど、でもそれって相互関係でないと厳しいかもしれん。

かわいい版下が描けてすごく嬉しい。かわいいし、かっこいいと思う。思い切りが良いのが描けた。うまく刷ってみせます。

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