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カテゴリー:映画のはなし

教育が最優先

2019年7月8日 (月) 21:57

映画のはなし

予告を観て気になっていた映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観てきた。
あ、もしよかったら予告編をどうぞ。http://moviola.jp/nypl/

私最近ドキュメンタリー観ること増えたな~別に意図的ではないけど。
上映時間3時間半(途中休憩をはさむロードオブザリングスタイル)の長い映画だったけど、公開2日目でも立ち見が出ていて、人気だなぁ~と思った。実際すごくおもしろかった。
まぁ”おもしろい”って言うとちょっと違うのかもしれん。これを観て「つまんない」って言う人はきっと大勢いるし、私はそれについて「えぇなんで?」とは全然言えない、そういう意見もあるでしょうね、と思ってしまう。
と、ここまで書いて気付いたけど、全映画がそれだわ、これに限った話じゃなかった。

ドキュメンタリーって例えば15年くらい前だと私は全く観ないジャンルの映画で、好き嫌い以前に「(観たことないから)何がおもしろいのかよくわからん」って感じだったのだけど、10年くらい前からちょっとずつ観るようになってくると、単にドキュメンタリーつってもいろんなジャンルというか方向性があるのだな、と分かってくる。
例えば「観客に何か伝えたい・訴えたいこと」が明確にあって、それに沿うように編集をしているものもあれば、それがあるのかどうかははっきり分からず観る側にお任せされていて、ただ淡々と事実だけを見せられるものもある。これらに優劣は全く無いし、好みはあるかもしれんけど、私は今のところどちらも好き。

「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」はおそらく後者であって、シーンごとの繋ぎに「人の手が入ってる」とは感じられないし(時系列なんじゃないの?とすら思ったけど、多分違うね、すごく計算して並べてある、その上で”人の手が入ってる”ように感じられないってことは、すごいこと)、撮ってる側の強い主張みたいなものは出てこない(撮られてる側のは強くある)。ナレーションも注釈もない、ただ事実だけを、そこで起こったことだけを、3時間半観る。だからストーリー性とかは無いし、人によっては「つまんない」と感じるかもしれない。

私は、ただずっと心地よく、耳を傾ける(実際は字幕を読んでるので耳はわりと適当にしてるけど、まぁいいかこんな話)だけの時間があって、その時間を受けとめるだけの情報量があって、ずーっと脳が動いてるな、気持ちいいな、と思った。その末の「おもしろかった」です。

多分「撮ってる側の主張」はあるんだよ、あるにはあるんだろうけど、それを汲むことを要求されないし、強要されない。その上で、ちゃんと撮ってる側の視点というか視線というか、眼差しが感じられるので、置いてきぼりにされてる、と思わずに済む。
ドキュメンタリーに限らず、「あぁ分からん、置いてかれてる、私に知性がないせいで」と思うの、結構しんどくないすか。断絶!壁!という感じがするし、私は逆も嫌なんだよな「あぁ伝わってない、もっとちゃんと説明しないと、諦めてる顔をさせてしまってる」と思うの、しんどいんだよ。もちろん分かんないのがおもしろい時も大いにあるし、分かんなくなりたくて(映画とかお芝居とか観に)行ってる時もあるので、一概には言えないけどな。「一概には言えないこと」しか無いな世界、どうなってんだ、不完全か。不完全だ。

会議のシーンがいくつかあるけど、まじで具体的な話をしている(まぁドキュメンタリーなので)せいか、そのカメラ位置のせいか、「私も黙ってないで何か発言しなきゃ」という気持ちになった。不思議。
でもアメリカってこういう、当事者であることから逃げない人が多いんじゃないか、そういうところはすごく良いなと思う、いや、「逃げられない」のかもしれないけど。でもいつだって何の話してたって、今生きてる人は全員当事者なんだよ、私に関係無いことがひとつも無い。

「今我々が所蔵しなければ、誰かが10年後に欲したとき、その本が見つからないことになってしまう。ベストセラーの蔵書を増やせば貸出数は増えるだろうけど、そういうわけにはいかない」みたいなバランス感覚の話も、すごくしっくりきたし、こんなのニューヨークに限った話じゃないし、図書館だけの話じゃないんだよな。
タイトルでは図書館の話ってことになってるけど、ずっと街の話をしていて、街の話って結局人の話であるから、この映画はずっと個の話をしてるんだよ。

監督のフレデリック・ワイズマンは89歳、とのこと。約90年生きた人の眼差しが、こんなにもやわらかく、好奇心に満ちているの、まじ歳取ることになんの嫌悪もないな。かくありたい。

あと単純にニューヨーク公共図書館の本館、建物そのものがめちゃくちゃ良いんだよな~ボザール様式建築、とのこと、なんだそれ、ようわからんけどとにかくかっこいい。何あの閲覧室は…最高か。木も良いし、石造りの建物も、古い建物は良い、良いねぇ…これからもずっと長く大事にされてね…と思う。

MP3 killed The CD star ?

2019年5月13日 (月) 21:55

映画のはなし

週末、元町映画館で「世界一と言われた映画館」というドキュメンタリー映画(山形県酒田市にあったグリーンハウスという映画館について取材した映画、グリーンハウスは火事で無くなってしまったそう…今もあったら行きたかったなぁ)を観て、そのあとのトークショーにも参加して、それがすごい楽しかったので、ちょっとしゃべりたいな、と思ったんだけども、もう前提が多すぎてここには書けない。いや、書こうとしたけど挫折した。
まず映画を観てない人にちゃんと内容を説明をした方が良いなと思って、その上でトークショーの話をしないことには伝わらないし、でもちょっと無理があったわ、私の文章力では厳しい。あとここに書くつもりで人の話を聞いてないから、話の流れがぶつ切りになってしまう、記憶力も自信ない。ので、誰か会ったとき聞いてほしい、頼む。

つーかこういう時って、私はいつもひとりで行ってるんですよ、まじで良くない。こういうことがあるから、いつもひとりでフラフラ気楽にしてないで、ちゃんと、面倒がってないで誰か誘って、自分から声をかけて、人を巻き込んでいかないとダメなんだよ私は。社会とか未来とかそういうふんわりしたものの為じゃなくて、自分の為に、いつもひとりでいるのは、やめにしなきゃだめだ。

元町映画館はわりとよく映画鑑賞後のトークショーを企画していて、前にも参加したことがあったのだけど、これがめちゃくちゃおもしろくて、好きなんだよ。今回もめちゃくちゃおもしろかった。
前にトークショー付きで観たやつは、結構前のことになるけど、おじいちゃんがトルコからドイツに移住して、っていう映画で(ごめん説明が雑すぎるな、”おじいちゃんの里帰り”っていう邦題です、よかったら観てください)「そもそもなんでトルコからドイツに移住するの?」っていう、社会情勢の部分を知った方がより映画がおもしろいよ!っていうことで、大学から先生を招いてトークショーをやってくれて、そういう感じで、まぁ、とにかくすごく良い映画館なんだよ。好きな映画館。良い椅子が入ってるのも好き。

トークショーがある回は、もうちょっとチケットを高くしてもいいんじゃないか…と思うけど、私みたいなもんが気にするようなことじゃないのかな…余計なお世話ですかね。あ、既にしてるの?わからんけど。
はっきりと「節約のため」にレイトショーかレディースデーで映画を観ていた頃に比べて(あ、名画座は好きで行ってた、節約のためでなく)、今はもう少しお金に余裕がある(お察しの通り、たかが知れた余裕ではありますが)ので、好きな映画館(に限らずお店とかミュージシャンとかもそう)に必要なら必要な額のお金を払いたい、という気持ちがある。もっと言うと、頼むから閉めないで続けてほしい、という気持ちがある。それがどんなに「当たり前のことじゃない」かが身に染みて分かるぐらいに私は歳を取ったし、閉める(辞める)理由がお金だけなんだったら、どうにかできるんじゃ、と思う。
若いころはそんなこと考えもしなかったけど、つーか若いころは何かを「これはできないな!」と思うことの理由、8割くらいがお金だったよ。私だけか?

あ、「お金なんてどこにでもあるものだよ」っていうの、誰のいつの何のセリフだっけ、漫画とかかな…いま急に思い出した。思い出しただけで、全然関係ない話です。

映画「世界一と言われた映画館」は、全体的に「あのころは良かった、あの映画館はとても良いものだった、代えがたい思い出だ」というのをみんな(働いてた人、通ってた人、映写技師さんとか)がキラキラした目で話すのを聴く、という感じで、私はとてもおもしろかった。
「いま私は映画館の映画を映画館で観ている」という入れ子状のおもしろさもあったし。

私は「あのころは良かった」トークがわりと好きな性質で、話してくれる人がいることを幸運だなぁと思うし、映画っていうテーマに限らず、できればもっと普通にいろんなところで知らない人から「あのころは良かった」話を聞きたいと思うんだけど、対にして出てきがちな「それに比べて今は良くない」という方向の話になってくると、ちょっと嫌だな、展開として雑だな、と思う。
「あのころ」と「今」とは分断されたものじゃなくてずっと続いているし「私の若いころ」と「今の若い子」とはめちゃくちゃ関連し、繰り返してもいる、自分の子や孫でなくても。「現実は正解なんだ」と言ったのは立川談志。現実には必ず原因がある。

トークショーでは「映画館に若い人が来なくなったね」という話が出て、まぁ寄席とか行っても若い人が来ないって言ってるし、どこもそうなんでしょうね、と思うものの、私も今30歳だし、みなさんの言う「映画館に来なくなった若い人」には含まれていないのだろうと察するけど、結局若くたって映画館で映画観る人は観るし、暇で時間余ってる人に無料でいいよって言っても観ない若い人は観ないし、「若い人」という大きい主語で出来る話じゃないな、と思った。

主語が大きい話、もう全然どこにも、誰にも響かないので、その話はしてないのと同じになってしまう、私もやりがちだから気を付けてる。私もすぐ「男はみんなさぁ」とか言ってしまうんだよ、ごめんなさい、しかも理性的にそれを言った時の感情を紐解くと「お父さんはいっつもさぁ」と言えばいいだけだった、みたいなこと、よくあります。ぜんぜん「みんな」じゃねぇ。気を付けます。個の話が結果的に全体に共感される話になるのは良いけど、全体の話に個を押し込むのは良くないと思う、少なくとも私は嫌いだ。

それにさ、映画を観る・観ないってのは、教育の話にもなってくるでしょう。教育って別に学校で映画見せろとかいう話じゃなくて(いやもちろん見せてもいいけど)、というか教育って学校以外でも日常的に無意識にやってることで、「映画ってものがありまして、これを映画館という場所で観るの、まじで超絶最高なんですよ」というのが、自分よりも年若い人に伝わってないように感じる、そのことがとても悲しい、映画館そのものがなくなってしまうんじゃないかという危機感を感じる、っていうような、自分を主語にした話をした方が良いんじゃないのかな。それなら私は共感できる、「そうですね、私もそう思います」と言える。

あと、おそらくあなたたちが言うところの「若い人」たちに、今ぜんぜん、お金をあげてないじゃないか、みたいなことも、思う。こんなこと、世代で分断するようなこと、結局は誰も悪くないと思うから本当は言いたくないけど、でも言うけど、少ない給与から年金と保険料をごっそり取られて「でもあなたはもらえないからアテにしないで、自分の分は自分で貯めてね」って言われて、「最近の子は車買わないしゴルフも行かない、家も買わない、海外旅行も行かない、映画はスマホで観れるから映画館に来ない」って言われてる「若い人」よ。もう先に生まれただけの人の話は聞かなくていいよ、と思ってしまう。

もちろん映画館で映画を観るお金が出せない(出したくない)っていうだけが「映画館で映画観ない理由」ではないと思うけど、でもゼロではないんだろうな…
仮にさ、私が今日「おばちゃん今から映画観に行くねんけど、一緒に行かへん?チケット代出すよ」って電車で隣の席の子を誘ったとして、多分、何人かは来るんじゃないの?まぁ怖がられるし私もいろんな意味で怖いからやらないけど、でも18~20歳くらい当時の私がこう言われたら、一緒に行くんじゃないかな。あと「今から歌舞伎観に行くけどチケット余ってて、一緒に観ない?お代いいから」って言われたら今でも完全に行く、誰か言ってくれないかな。待ってます。
でもそれって結局、もう大分近いところまで来てる人なんだよな、あとはお金とか、きっかけを待ってるだけの状態まで来てる人、だからあのトークショーの場で言ってた「映画館に来なくなった若い人」とは、ちょっとニュアンスが違うのかもしれない。

あと「今の子はスマホとかネットで観れて、映画館行かなくても済むからかなぁ」っていう話も出て、それはそうだな~と思うけど、でも私は家で、DVDとかネットとかで観る映画も大好きだから、一概に映画は映画館で観るもの、みたいな話は、私はできない、と思った。
あ、もちろん、「映画館という場所がなくならないためにも、もっとたくさんの人が映画館で観てくれると良いよね」というニュアンスの話であったと思う、「映画館以外で観る映画は映画に非ず」というニュアンスの話ではなかった。全くない。でも対にして出てきがちなんだよこの話は、嫌だな。

主語が小さい話をしよう、私の話だ。
数万円のバイト代から紙を買うお金や印刷代、画材を買うお金、フィルム代・現像代、そもそもの食費・生活費をひねり出しながらどうにかこうにか暮らしていた、給料日前には必ず銀行の残高が数十円になっていた18歳の私から、映画を奪わないでくれたのは、映画館じゃなくてTSUTAYAだった。当時、この世の誰よりも好きだった人と、TSUTAYAでお互いに5本ずつ選んだDVDを、(家にあった唯一のDVDを再生できる端末、こと)ノートパソコンで順番に観て、いつのまにか寝てしまって、また起きて続きを観た、あのとき観た映画を、映画館で観る映画と同じ文脈で話すことはできないな、と思う。
そりゃあ17インチぐらいのMacBookにオーディオテクニカのスピーカーをつないで電気消したソファーも無い家の布団の上で観てたから、映画館の方が圧倒的に良いに決まってるよ、そんなこと当たり前に分かってるし当時も分かってたよ、映画は映画館で観るものですそういうふうに作られていますよねそう思います、でも、そんな簡単な話じゃないところに、私の生活はあったよ。
だからNetflixもAppleTVもHuluもAmazonPrimeも、映画を観るという行為の、選択肢のひとつとして存在してくれていることに私は感謝している。私が18のときにあれよ…とは思うけども、それはもう、済んだ話だ。

でもこれは「映画館に若い人が来なくなった」話とはちょっと、ズレるのかな。違う話かもしれない。

ズレたついでに書くけど、あのころ、DVDで観て本当に大好きだと思った映画の中には、あとから映画館で観ることが出来たものもあるのよ、「トニー滝谷」です、神保町で観たの、あんな幸福なことはなかった。いつどこでその映画に出会うかなんて、自分で自由に選べるようで、実際には選べないし、そのきっかけに、上も下もない、私はそれが金曜ロードショーの吹き替え映画だって、構わないと思っている。それに、いつかパリで、みほと一緒に映画館に行き、「アメリ」を観るのが、今の私の、夢のひとつでもあります。

書いてれば何か結論が出るのかな、と思ったけど別に出ないね。結論なんかそうそう出るものじゃない。
後出しじゃんけんみたいに、こんなとこにちまちま書いてないで、あの場で、あのトークショーの場で、まとまらなくても声を出せるぐらい、話し始められるくらいの社会性をもった大人になりたいけど、まだ全然だめだ。がんばります。
と言いつつ何をどうがんばるのかは全く見えてない。じゃあ「がんばります」と言わない方がいいな。

とにかく私は元町映画館がとっても好きだし、もっと好きになったな、ということと、あの日あの場にいた人たちともしまた会えたら話がしたいな、きっとおもしろいだろうな、ということが言いたかった。

終わります。

横にロートレックがいる

2018年8月7日 (火) 23:55

映画のはなし

映画「ゴッホ~最期の手紙~」のブルーレイがツタヤさんにあったので借りてきて観た。
結構、話題になってた気がする。油絵が動いてる!って。
実際100人以上の画家が全編「描いた」そうです。6万枚超えだそうです。
すごいね…すごい…
これキャッチに「愛か、狂気か。」って付いてるけど
あれでしょ、この仕事量はゴッホへの愛なのか、我々の狂気なのか、って意味でしょ。

印象派絵画がそのまま動く、2006年のロシアの映画「春のめざめ」っていう
すごい映画があるのでそっちもすごいよ。
(語彙力がひどい)

「ゴッホ~最期の手紙~」、この手法がすごい・おもしろいってだけでなく
お話もすごくよかったのでおすすめしたい。

ストーリーは郵便屋(この人の肖像画観た、ボストン美術館展で観た)の息子・アルマンが
ゴッホが最後に書いた手紙を弟・テオに届けようとすることに始まり
ゴッホはなぜ死んだのか、本当に自殺だったのか、を追っていく流れになっていて、
いろんな人に会いにいってゴッホがどんな人だったか、死ぬ前どんな様子だったかを聞くのが
主軸になっているのだけどまぁみんな言うことがバラバラで、
結局「ゴッホがどんなに人だったか」は全く分からないのだった。

私はこの”人”とか”もの”とかについていろんな人がいろんなことを言うのが好きで、
それがバラバラであることに、心底安心する。
もっと言うと、健全だな、と思う。

人は誰にでも一貫して同じ顔を見せるわけではないと思うし、
時と場合によって人の印象なんて簡単に変わるし
ある”人”について何か話すとき、その人のどこをピックアップするのか、
どのエピソードを切り取るのかによって全然違う”人”にも見えるわけで
つまりある”人”についての話が
全員一致するなんてこと絶対ないだろうと私は思うのだ。

だから、ゴッホが自分の耳を切った(それを娼婦に渡した)エピソードを切り取れば狂ってる、と思うし
子どもを膝にのせてニワトリの絵を描いてあげたエピソードを切り取ればやさしい人、と思うし、
この映画はそういう、いろんな角度から”人”を観ることが出来るストーリーになっていて
それがとても、よかったです。

「ゴッホがどんな人だったか」なんて、もうとっくに死んだ人なので分かりようがないし
まぁ仮に生きて会えたとしたって
私がゴッホがどんな人だと思うかは完全に私だけのものであって
それを共有したり、決めつけたりする必要はぜんぜん無い。

「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」も、これはドキュメンタリーやけど
同じくマイヤーについていろんな人がいろんなこと言う映画で
これも結局「マイヤーがどんな人だったか」は全く分からなくて最高だったのでおすすめです。
「分からない」は最高。
「分からない」から考えるし、調べるし、人に聞くし、
「分からない」はたのしい。

しかしまぁ芸術家というのはなぜこうもみな、ひどく孤独で、
うまく生きられない人ばかりなのだろう、と思う。
でもこういう、なんというか”死”に触れることのできる人だけが
この世に持ち帰れる何かがあるのかもしれん、とも思う。
でもクレーとかマティスみたいなタイプの画家もいるので
一概には言えませんね。

父はアルルに、ゴッホが描いたカフェを見に、
またフランスに行きたい、と言っていたので
近いうちに行けたらいいな。
パリももうちょっとゆっくり行きたいけど、
私もニースに行ってみたいし、南仏が呼んでる。

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