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2026年7月27日 (月) 21:45
『新凱旋門物語』という映画を観てきた。なんかめっちゃおもしろかったんですけど、別に騒がれていないっぽい。filmarksのレビュー件数は465件だそうだ。少ないですね。なんでや。理由は知らんが、まず邦題がダサいせいじゃないですか。物語に「物語」って付けたらあかんのとちゃう。いやでも結構付けるか。
メインビジュアルもイマイチ良くないと思う。この映画は脚本だけでなく映像とその色合いが大変良かったんですけど、メインビジュアルの色は全く違う。なんでこんな露出高い色合いに補正してしまったんやろ、彩度もこの感じじゃなかったやんか。もったいない。
とにかく映画自体はなんか知らんけどめっちゃおもしろく、映像としても良かったです。何で撮ったらあんな色になるんやろ。
『新凱旋門物語』というだけあって、新凱旋門の建築にまつわる話なのだが、この建物はフランス語だとla Grande Archeという名前らしい。「新しい」という意味は入っていないようなので、アレを「新凱旋門」と呼んでいるのは日本語だけなのかもしれない。まぁ立ち位置としてはカルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門と同じ道の直線上(パリの歴史軸と呼ぶみたいです)に建っているし、一番最近(1989年)に落成式が行われているので「新凱旋門」で間違いはないのかも。私は正直馴染みはない、劇中で初めて見た。「新凱旋門?そんなんあったんや、どこに?森のほう??」と思った(森よりもっと西側でした)。私が「凱旋門」と言うとき思い浮かべているのはエトワール凱旋門だけだし、カルーゼル凱旋門はあるのは知ってるけど形状は思い浮かばない程度の知識しかない。映画が始まってしばらくしても「え、これ実在するやつ?完成せんかったって話?」と思っていた。知識が無くてあらすじを読んでいないとこうなる。
ストーリーはデンマーク人の建築家に「君のプランが採用されたよ、おめでとう」と連絡が行くところから始まる。新凱旋門は国際コンペで公募されたようだ。建築家はどうやら自宅と教会を3つ設計して、今は大学で教えているようで、ここまで規模の大きい建築物を手がけたことはないらしい。このデンマーク人建築家と、もうひとりのフランス人建築家(この人はシャルルドゴール空港を作った人)、フランス政府の役人とをメインに話が進んでいく。
ザックリ言うと一切妥協というか折衷案に落とし込めないデンマーク人建築家と、知識や経験から現実的な案へ折り合いを付けるよう調整役をするフランス人建築家、政治やお金に絡む部分のお目付け役フランス人でストーリーが展開していく。デンマーク人建築家の言っていることを無下にするのは簡単だし、多くの仕事はそうやって回っていることを知っている。私だって日々そうしている。でもこれ結構良し悪しというか、誰かの我を通すのを諦めつづけると、仕事ってどんどんおもしろくなくなる。とはいえ「それじゃあ進まんねんて、規模がでかいねんから、どっかで落としてよ」と言いたくなる気持ちも痛いほど分かる。わかる、めっちゃ気持ちわかる、でもそれでは進まんねん。ものを作るのってほんとうに大変だ。お金だってかかるし、納期だってあるし、作るものの規模が大きくなればなるほど巻き込む人も否応なしに増える。
私はだいたいフランス人建築家の立ち位置で、フランス政府の役人にうまいこと言いながら、デンマーク人建築家のご機嫌を損ねないように仕事をすることが多い。たまに自分自身がデンマーク人建築家である場合もあり、そのときは自分の中にフランス人建築家の人格とはうまく分けて置き、矛盾する一人二役のようなことをひとつの身体でやっている。8割はフランス人建築家の言う通りにやって、誰にも気づかれないようなところにデンマーク人建築家の思いや熱意を2割残し(隠し)、自分を宥めている感じ。まぁ私の中のデンマーク人建築家はだいぶ聞き分けが良い。劇中の彼と比べるまでもない。これは私が「事なかれ主義」だからである。
私は何事においても肝要なのはバランスであると思っているけど、でもうまくバランスをとるために死んでいった熱情みたいなものだってたくさんあるからな。……というこれすらも結局バランスの話になってしまっているし。
私は建築が好きなので、来世は建築にかかわる仕事がしたいと思う一方、こんな規模の大きいもの、扱い切れるんだろうか、と不安になる。来世のことなので今から不安になる必要はないが、あまりにも巻き込む人間の数やコントロールすべきものごとが多すぎる。だってウェブデザインだとここまで「材質」に気を配る必要はないし、国や法律によって使えない技法なんてないもの。手に余ると思う。気が狂わないんですか、ポール・アンドリューさん。もはやこういう有象無象を現実に落とし込むことに快感を感じている?そういう人にしか続けられない仕事なの??
何もつくらない人がこの映画を見ると、どう見えるんだろうか。もしかして、デンマーク人建築家のことが「分からずやの悪者」に見える??「和を乱す芸術家タイプ」に?
が、私の家族や友人には「何もつくらない人」がいない気がする。全員なんか作ってない???いや待てよ、人間は何もつくらずに生きていけないのか?もしかして。
映像がとにかく美しく、肉眼で見える色がこれだったらいいのに、と思った。特にイタリアの採石場のシーンは「もう誰も何もしゃべらないでくれないか」と思うほど美しかった。音を聞いたり字幕を追うリソースすらもったいなく感じる。あの石の山を見ていると、あれで何をつくったって、あの石の荘厳さには敵わないんじゃないか。
構造
2026年7月17日 (金) 20:57
濱口竜介監督『急に具合が悪くなる』を見た。私が好きな、石っぽい濱口竜介作品だった。「石っぽい」の意味は以前『ハッピーアワー』を見たときに書いたので、割愛する。『親密さ』を見たときに書いたものも残っている。濱口竜介の映画ぜんぶ長いけど、退屈とは無縁というか、ずっと感情が動き続けるので長いと感じる隙がない。なおかつ終わったときに「あぁ終わっちゃった、もっと見れるのに」と思う。たぶん、あまりフィクションぽくないせいかも。だから登場人物たちに対して「え、まだ知り会ったばっかりやのに…」と感じてしまう。原作があるものと知らずに見たんですが、元になった往復書簡があるようです。
中盤のシーン(劇中ホワイトボードに書いてたところ)は、私が2017年に(奇しくも、本作の舞台である)フランスに行ったときに持ち帰ったいわば種のような感情や感覚、疑念を、概ね10年かけて(意図的ではないが結果的に)育て続け、人に話す必要に迫られなかったので言語化を怠り、昨年の秋にようやく「これ問題じゃない?」と言っている人たちを見つけた件と、まったく同じ内容だった。
私は愚かなので、あのシーンで「え、何か答え(ようなもの)をくれる……?」と思ってしまった。安直すぎると、自分に落胆した。そんな簡単に答えが提示されるようなことじゃないと分かっていたのに、分かっていたはずだったのに、と思った。
たぶん自分で認識しているより、この件がしんどいんだと思う。「こんなの良くない、いやだ、もうやめにしたい、そっちへ行きたくない、このあたりで一旦とめたい、戻れるところまで戻りたい」と10年も思っているのに、具体的に何か出来ることがあるわけでもないのとか、明確に「こうしよう、こういうのを試してみよう、みんなでやろう」と打ち出してくれる人がいないことなんかが、ずっとしんどい。たぶん「私なんかが気づけたり考え付くようなこと、もっと賢くてちゃんと勉強してる人たちはもうとっくに分かってるねんから、誰かなんとかしてくれるよ、大丈夫大丈夫」を落としどころとしていたのに、そうじゃないかもしれない、というのが年々ハッキリしてきたからだと思う。「誰かがなんとかしてくれる」なんて無責任な落としどころ、もうとっくに機能していないのは分かってるけど、でもじゃあ私に何が出来るのか。考えるのはできるけど、それが何かを変えてるとは到底思えない。適当なところで絶望しておいて「でもまぁ私が生きてるうちにはどうもならんか、子もおらんし」などと楽観的に切り替えておけばいいのかもしれんけど、それすらも上手くできない。具体的に何も出来ないだけじゃなくて、自分の内側で考えないようにするコントロールすることも出来ない。何なら出来るのか。
劇中「何と戦ってる?」と聞かれたマリー=ルーが「構造」と答えたとき、うらやましいと思った。私は自分の内側で考えてるだけで、何とも戦えていないからだ。私は自分の会社とか、家族とか、友人同士とかの小さいコミュニティの中ですら、何とも戦えていない。
なんか「しんどい」みたいな感想になってしまって、これはちょっと、映画の感想とは違うんですが、映画はとても、良かったです。
だいたい映画を見ていない人にとったらまるっきり何も意味が分からない文章になっていると思う。何の件についての文章か書いてないから。でもそれは私にはどうすることもできないので、あなたが映画を見てください。(???)
まぁ「こういうシーンで、こういう内容の会話があって、流れはこうで」と詳細を書けばいいけど、書きたくない。私はあらすじを憎んでいるからです。あらすじなんか読むな、人間にはあらすじを読むような時間はない。常に本編だけを見ろ。
帰りは自転車を借りて海側を通って帰った。海側のほうが道が空いている。コンデジを買ってから常に持ち歩いているので「そういえば撮りたかったところ」を順番にまわる。
友人の言った「カメラあれば撮る人」は本当に言い得て妙だと思った。確かに私「この道のラインがなんか好き」とか「この建物の角が良い」みたいなのが街中にあるわ。「ここ隙間の形がきれいやから光が良い」みたいなやつ。
でもわざわざ撮ったりはしてなかった、だって「カメラ無い」から。だから、あれば撮る。だってカメラあるねんもん、そら撮るやろ。
輝度
2025年6月25日 (水) 21:18
姪っ子、ではないか、えーと、私の従姉妹の娘は、私からすると呼びかたは何ですか。ちょっと調べてきます。
従姪(じゅうてつ)だそうです。耳慣れないですね。読みは「いとこめい」でも良いそうです。ほんまか……?今度図書館で調べておきます。
従姪と話しているとき、あんまりハマらなかった映画の話になった。彼女が言うには「妹が観たいって言うから一緒に観たけどイマイチで」とのこと。「イマイチってどんなところが?」と聞くと「そんなに深く考えんかった」と言う。
その話の前に、彼女は「何事にも深くのめり込むようなことがなくて、これといった趣味もないのが悩み」というようなことを言っていたので、私は「自分が何が好きかと同じぐらい、何が嫌いかをちゃんと考えて知っていかんから、逆に何も好きになれんくて、深くのめり込めんのとちゃう?」と話した。私は逆で、いろんなものにのめり込みやすいタイプなので、金もかかるしいつでも時間は足りないし、あらゆる趣味に同じだけの熱量を注ぐことの難しさに苦しんだりしているような人間だから、反射的に「趣味なんかなくたって別にええやん」と思ったが、それは言わないでおいた。趣味がない人の気持ちを、根本的に理解していないので、迂闊なことは言えない。
「試しにその映画の何がイマイチやったか話してみてよ」と促すと「話の先が読めてしまって、しかもその通りになったから、嫌いとまではいかんけど、でも楽しめなかった」とのこと。「でも“お約束”とか“ベタ”とか、いわゆるお決まりの展開ってのは映画にもドラマにも付き物やし、必ずしも“先が読めること”は弱点ではなくない?」と私は言ったが、従姪は「確かにそうや、楽しめるベタもある、でも違いがわからん」と言っていた。「もう少し深堀して考えてみたらおもしろいかもね」と言い置いて、この話は終わった。
後日、私の両親にこの話をしたら「普通はおもしろくないとか好みじゃないと思ったものについて、そんなに時間かけて考えたりせんやろ、お前はめんどくさいな」とのこと。私は生まれつきこういうめんどくさい人間やないか今さら何を、と思ったけど、加齢によって加速している自覚もある。ふはは。あなたたちが生み育てたモンスターですよ!!!と言いたいけど、両親のことは「私が成人するまで衣食住の世話をしてくれた心優しい人たち」としか思っていないので、私のめんどくささに両親がどの程度関与しているのかは全然わからない。正直、まったく関係ないようにも思う。
そもそも「好き」とか「よかった」とかについて話したり考えたりすることは「良いこと」とされていて、「おもしろくない」とか「好みじゃない」とかは蔑ろにするの、何なんや。同等に扱ってもええやん。「好き」と同じくらい「嫌い」について考えたほうが「好き」だって強化されるやんか。
まぁ私は嫌いな映画の何が嫌いかを言語化してまとめるためにもう一度観るような人間なので、評としては「めんどくさい」で合っていると思う。
興味が湧いたので、従姪が「イマイチ」と評した映画も観てみた。確かに「話の先は読めてしまった」。が、どう考えてもこれは子どもをメインターゲットにした映画なので「そらそうやろ」とは思った。私は子ども相手の創作物に、思いも付かない着地点とか、壮大な裏切り、とかは必要ないと思っている。よかったよかっためでたしめでたし、で終わっていい。
一方、SNSで見る限りは大人の評価も高いようだったので、気にかかり、何が理由か考えてみたけど、おそらくは原作アニメを子どもと一緒に観ている(というか、ながら見している、子どもと暮らすと自然にそうなる)ので、ある程度キャラクターについての前知識があるんだと思う。もしくは自分が子どものころに観ていた原作アニメの記憶がちゃんと残っている。
キャラクターたちそれぞれの性格や役どころ、経緯なんかをある程度把握している人は、劇中では特に何も説明されないキャラクターの行動や、細かい言動をきちんと理解できる。そういう基礎知識のない人は大筋のストーリーしか追えるものがなく、なおかつこの大筋のストーリーは「話の先が読めてしまう」くらい分かりやすいので、そら感想としては「イマイチ」になっちゃうね、と思った。
“イマイチ映画”としては分解しやすかった。なおかつ作り手や映画そのものではなく、どちらかというと「私はターゲットではない」という意味で、むしろこちらに非があるように感じた。
でも、序盤から何度も挟まれる台詞のないシーンは印象的で良かったな。「戦をすると何が起こるのか」ということを、子どもに伝えるのに、過不足ないシーンだったと思う。みんなが「かっこいい」「おもしろい」と言って見ている「たたかい」はアニメの中だけで起きているわけではないことが、直接的ではないにせよ伝わったんじゃないか。子どもに向けて物をつくる人たちのスタンスとして、かっこいいと思った。
先日観たある映画については、まだ自分の中で処理が終わっていないが、SNSを見ると「最高」「よすぎた」「すごすぎた」と絶賛コメントが流れてくるので、なんとなく焦る。良かった映画の処理に比べると、イマイチ乗れなかった映画の処理のほうが時間がかかるのだ。1回しか観ていない映画の記憶などもちろん日に日に薄れていくのに、どこがどう刺さらなかったのか、腹落ちさせられるまで熱心に考え続けるなんて、普通に疲れる。別に楽しくもない。何の時間なんだ。「好き」を考えるより「嫌い」を考えるほうが大変だ。疲れるけど、あきらめるのも癪に障る。「私はターゲットではない」のだったら話が早いのに、年齢層や趣味嗜好、監督の過去作からの流入客である点など、どう考えてもメインターゲットなのでよけいにしんどい。
とりあえず「ずっとダイジェストみたいだったのでアツくなれなかった」ということと「キャプションはないほうが良い、出したほうが親切だし、知ってほしくなる気持ちも分かる、でもキャプションはないほうが良い」、それから「対比させるなら他方の書き込みが甘いんじゃないか」ということ、さらに「感情表現をあまりにも役者の演技頼みにしすぎじゃないか」と思ったことは、ここに記録しておく。
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