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アイラブロックンロール

2022年10月31日 (月) 21:18

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9月に出ていたらしいweezerの秋盤を聴きながら「おばさんになったなぁ、私」と思った。叔母さんではない、歳を取ったな、という意味の「おばさん」だ。
今さら何を言っているのか、と我ながら思う。30歳を過ぎてまもなく4年になるのだ、しっかりおばさんだよ。そういう話じゃなくてさ、weezer聴いて安心してるこの感じがよ、おばさんになったんだなって……

ボカロ文脈の音楽に心底心酔できない。ボカロ文化そのものの黎明期に、世代的にはしっかり居合わせたのに、隣の村の祭りを見るように過ごしたのが原因だ。後悔などはないものの、もしあの祭りに身体ごと参加していたら、私はもっと、例えば米津玄師の良さを、身体ごと理解できただろう。

ヒップホップ文脈の音楽にも、心底心酔できない。私がヒップホップを認識したのは「8mile」のエミネム辺りだし、アメリカだけじゃなくて日本にもストリート(物理的な意味でなく)があると芯から理解できたのはそのもっと後、2008年頃のことだ。遅い。

日本のポップス文化にはご縁がなかった。単にご縁がなかった。いつも何故か「みんな」に私が含まれていない、物理的に村を追放されたり田舎に追いやられたりはしていないのに、私はいつだって「みんな」の外に居る、なんかおかしい、なにが原因だ?なぜ私は「みんな」に入れないのだ、なぜ「みんな」の居る方を私は選べないのだ、などとグチャグチャ考えているうちに、ポップス文化に肩まで浸かる機会を逃してしまった。そのころ私はカール・オルフやプロコフィエフ、マスカーニやホルストと毎日を過ごしたが、あれはあれで、必要な音楽体験だったと思う。

結局私が貪るようにその肉を喰らい、骨をしゃぶって血を啜った音楽は、ロックだけだったのだ。ロックは私を「みんな」に入れてはくれなかったが、「みんな」の外にいるのは別にお前だけじゃないと教えてくれた。
私が思うほど「みんな」って無いんだな、と気づくのはもっと後のことだ。「みんな」に見えたものが、今はもう見えない。なんで在るように見えたんだろう。幻覚だったのかな。今も在るんだろうか。私に見えないだけだろうか。

ロックはもう、流行らないだろう。今後もどんどん懐メロみたいなにおいを発して、次第に古典になるはずだ。そのことを嘆く気持ちはない。ただ事実として、そう思う。

Spotifyを開き、右手でスクロールしながら、一生かけても聞ききれないほどある音楽の束を思う。そのことのありがたさと、同量の絶望とを感じる。何聴いて生きようかな。たくさんあってうれしいよ。

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