
blog
バスで行く
2023年12月4日 (月) 21:36
今年は映画を200本観ることにしている。現時点で183本まで来たので、いけると思う。
ヨウリーが「タナノゾの200本を振り返る配信やろうよ」と言ってくれたので、年明けにやる予定です。また告知します。
一応「観たことない映画200本に限る」というルールにしていたけど、「観たような気もしなくもないけどはっきり覚えていない」みたいなのはOKとしている。自分ルールでしかないので別にそんなに厳密にしなくてもいいんちゃうんか、と思わなくもないが、性格が細かいので……
『アメリ』のデジタルリマスター版の上映が始まっているので、週末は映画館へ行った。『アメリ』は私が人生で一番繰り返し観た映画だと思う。少なくとも100回は観ている。初めて観たのはたぶん14歳のとき、父がBSかなんかで放送されていたのを録画したビデオテープで、以降暇さえあれば観ていた。当時はリビングにしかテレビがなかったので、弟がよく「またアメリ観とうやん、観過ぎやろ、年間何回観てんねん」と言っていた。年間だと20回くらいかも。
私の中学校時代は人生のほとんどすべてが部活で構成されていて、朝練行って授業受けて夕方部活やって日が暮れたら帰る、週末は部活、ずっと部活、夏休みも冬休みも春休みもずっと部活、という生活をしていたので、テレビもほとんど観なかったし、流行りの音楽も知らなかったし、雑誌を買ったりファッションに興味を持ったりもしなかったし、だから公開当時2001年の『アメリ』の様子は全く知らない。社会的ブームになるほど人気があったことも、後から知ったことだった。インターネットもまださほど普及していなかったし、SNSも無かったので、私は『アメリ』が世間一般にどのように受け入れられているのかを何も知らなかった。語り合えるような友だちも当然いなかったので、ひとりで繰り返し観るしか気持ちの向けどころが無かったんだと思う。そら100回ぐらい観るやろ。
高校に入学すると、ようやく『アメリ』が好きだと言う友人と出会うことが出来た。私は『アメリ』が好きどころか、『アメリ』を知っている人にすら会ったことが無かったので、ものすごく嬉しかった。その友人とはそこから約10年後、一緒にモンマルトルへ行き、カフェ・デ・ドゥ・ムーランにも行ったし、もちろんクリームブリュレをスプーンの裏面でバキッと割って食べた。
そんなだったから『アメリ』を映画館で観るのは初めてのことだ。デジタルリマスター版なだけあって、確かにCG部分がキレイになっている。ストーリーの流れはもちろん、台詞(というか翻訳字幕)もほとんど覚えているけど、観るのは結構久しぶりだったので楽しめた。ニノみたいな独創的な趣味を持っていて、モテはしないけど人当たりがよく、アメリのまどろっこしい距離の詰め方を気味悪がったりせず、なおかつ応戦できるくらいの大らかさがあり、下がり眉の目元がかわいい男の子、めっっっちゃ好み……と思いながら観たけど、こんな人おらんよな~ははは、映画映画。
同じ日に『ゴーストワールド』も観に行った。奇しくも『アメリ』と同じく2001年公開の映画だったらしい。
『ゴーストワールド』を初めて観たのはたぶん17歳のとき、友人が「ゴーストワールドって映画の、主人公の子がのんに似てる」と言ったのがきっかけだったと記憶している。当時は既にミクシィがあり、日常的にインターネットが使えるようになっていたのですぐに『ゴーストワールド』のメインビジュアルだかスチールだかを見ることが出来た。友人が「主人公の子」と言ったのはソーラ・バーチ演じるイーニドのことだ。ボブヘアに眼鏡、古着っぽいTシャツに短めのボトムス、確かに似てる、と思ってツタヤさんでDVDを借りて帰った。
観てみると、似ているのは外見よりむしろ性格だった。偏屈で口達者で皮肉屋、いつでもどこでも波風を立ててばかりいて、大体いつも不機嫌、人を「ダサい」とこき下ろすわりに自分も十分ダサい、自覚もあるけど友人には知られたくない、さらに「自分は何者かになれる」となんの根拠もなく思っているところも、めちゃくちゃ似ていた。
17歳を2回繰り返せる年数を生きた2023年の私は、結局何者にもなれないまま育った町を去るイーニドのことを、母親のような気持ちで見るにはまだ早く、希望を込めて我がことのように見つめるにはもう遅い、といった気持ちで観届けた。何者にもなれなかった後の人生を生きている2023年の私は、そのことを嘆くフェーズすらもとうに終え、毎日ゴキゲンで、楽しくやっている。望んだ仕事に就いて、恵まれた環境に身を置き、かわいい家に住んで、好きな人たちにいつでも会える。あのころなれると思っていた「何者」とは、いったい何だったんだろう、もう思い出せない。具体性なかったもんな。微塵も。
イーニドは町を出て、もう戻らないのだろうか。でも「夢はある日突然町を出ていくこと」と言っていたし、だから夢は叶ったとも言える。とはいえ案外すぐに戻ってくる気もする。「こんな退屈な町」と言いながらも一生をそこで暮らす人、いっぱいおるもんな。
おもしろかったのは「私の家、ほとんどシーモアの家とおんなじだな」と思ったことだった。愛すべきガラクタでみっちりと埋まった私の家は、シーモアの家とほとんど同じだ。私とシーモアの違いはその家を尊重してくれない恋人を一時的にでもつくり、家に上げているところだと思う。あなた自身だけじゃなくて、あなたが大切にしているものに敬意を払ってくれない人とは、一緒にいちゃいけないよシーモア。
一方、シーモアの終盤の振る舞いは、大人になった今観ると、全く受け入れられない。映画全体のテーマ自体は普遍的なものと言えるけど、でもディティール詰めていくとかなり厳しい部分があると思った。でもこれは映画がどうこうではなくて、時代が進んでいることの証だったり、私の感覚が年齢とともに変化していることの証だったりする。
「今は差別を隠すのが上手くなった」という台詞についても「うーーーんここから20年以上経ったけど差別については今もまだそのへんで足踏みしてるわたぶん世界中が、すみません不甲斐なくて」と思った。今は「隠すのが上手くなった」というよりむしろ「差別なんかしてないのに」とか「差別は無い」みたいなことを堂々と言う人が多い気すらする。……おい後退してないか。
いずれの映画も再上映用にパンフレットが制作されていたので、買って帰った。観たことある映画も、映画館で観るのは楽しいね。
ところで今日はかわいくてかっこよくて素敵なジンくんのお誕生日です。おめでとうジンくん、今年もずっと好きだったわ。あったかくして、よく食べて、よく寝られますように。
里の秋
2023年11月22日 (水) 20:18
『しずかなインターネット』を始めた。短い日記を書くことにしようと思っている。フォロー・いいね・リプライ、みたいな機能はない。全く知らない人の文章をいくつか購読することにしたけど、これは相手に通知されてるんでしょうか。されてないといいな、気味悪いと思われたくないし。
機能に不足はないと思うけど、改行が出来ないのだけちょっと気になる。改行はさせてほしい。初期アイコンが犬の横顔なのはかわいくて気に入っている。
「あまり強固につながろうとしない」ということが魅力に成り得る、ってことは、それだけ「誰かとつながっている」ということがインターネットではスタンダード、ってことなんですかね。だって本当の本当に心底「どこにもつながってなくていい」のであれば、そもそもインターネットに書く必要はないわけで、だからレベル感、みたいな話なんでしょうかね。
私はこのサーバーに14年(…14年!)文章をアップロードし続けているが「ここに置いている以上は、いつか誰かが何かの拍子にうっかり読むかもしれない」ということをいつも念頭に置き、そこが魅力でもあると感じている。「いつか誰かが」の「誰か」には、もちろん私も含まれる。
あと「万が一誰かが読むかもしれない」と思って書く文章と「私以外にこのノートを開ける人は誰もいないから絶対に読めない」と思って書く文章は、明らかに別物である。後者は10代から20代前半にかけて散々やったが、燃えるゴミの日に出してしまったので今はもう私も読めない。
まぁいずれにしても、どっかになんか書いてないと死ぬんだと思う。
そういえば私は読むのも観るのも聴くのも描くのも作るのも好きだが、わりとムラがあり、例えば今年は観るのを多くやったので読むのはだいぶ減った。描くのと作るのはほとんどやっていない。
でも書くのは、書くのだけは、仕事でもなければ誰に褒められるわけでもなく金も稼げない上にいいねボタンすらないのに、ずっとやっている。「なんか書いてないと死ぬ」以外に、どんな理由があるというのだろう。
ここでいいから
2023年11月21日 (火) 20:55
「大事にする」ってどういうことだろう。ついこないだ「気を付ける」が難しい、と書いたが、同様に「大事にする」も難しい。
下岡晃と安部コウセイのライブを観にいった。終盤、『抱きしめて』を歌うと言った下岡晃にコウセイさんは「俺もちょっと入って良い?」と聞いた。一緒に歌ってもいい?という意味だ。続けて「いや、大事な曲だからさ、一応許可を、と思って、敬意を」と言った。
私は下岡晃ではないしアナログフィッシュでもなく、ただファンであるだけの何者でもない人間なのでこんなことを言うのはおかしいが、確かに『抱きしめて』はとても大事な曲だ。本当は「とても大事」とか言うのもはばかられるくらい。
この曲がどのように生まれ、どのように歌われてきたかを知っているし、どのように大事にされてきたのかを見てきた。10年以上経つ。だから、コウセイさんが引いた一線のような“敬意”をとても嬉しく思ったのだ。大事なものを一緒に大事にしてくれることが嬉しかった。いや私がこんなことを思うのは、全くもっておかしいが。どの立ち位置で言うとんねん。
帰り道「大事にする」について思考を巡らせたが、特に答えは出なかった。日々生活していると答えが出ない問いのほうが圧倒的に多い。大事にするって、どういうことなんだろう。なんかきれいな箱に入れて、きちんと鍵をかけて、家から出さずに仕舞っておくこと?そういう方法もある。あるいはずっと身に付けて、くたびれてきたのを直してまた使って、いろんな人に触れてもらって、欠けたところを継いで、それでもまだ持ったままいるってことかな。そういう方法もある。
『抱きしめて』がどのように大事にされてきたかは、後者が近いと思う。発表された当初は震災直後という時期もあいまって、繊細で、消えてしまいそうな空気感があった。乱暴にすると割れるんじゃないか、みたいな感じ。演奏は何度も繰り返された。CDになるころには健ちゃんが歌うパートが出来たし(最初期はなかったと記憶している)、ライブではお客さんも一緒になって歌ったし、Ryo Hamamotoのギターソロでアウトロを長くやる日もあってあれはすごくかっこいいし、下岡晃はインスタライブでこの曲を数十回演奏してきた。今『抱きしめて』に似合う単語は「繊細」ではなくて「強度」だと思う。素材っぽさやむき出しの雰囲気はずっと変わらないけど、変質した、ように感じる。両手で包むようにしてしか持ち運べないような曲だったのに、今はもたれかかっても大丈夫だと思う、同じ強さで押し返してくれる。
「大事にする」っていうのは、自分がどんなふうに大事にしたいかを、考え続けるってことなのかもしれない。お、なんか答えめいたものが出てきたぞ。
「大事にする」に型はないので、大事にする人とその対象の組み合わせによって無限にその方法があり、無限にあるということはつまり「その大事のしかたは間違ってる」とかは、誰にも言えないってことだ。でも対象に意思がある場合は「その大事のしかたは望んでいない」とか「このように大事にしてほしい」とか言われる場合もある。そういう時は聞き入れて、全部じゃないにしても受け入れて、調整が要るけど、でもまずは自発的に自分がどのように大事にしたいかを考えるところからしか「大事にする」は始まらない。お、なんか答えめいたものが出てきたな。
答えめいたものはただ「めいたもの」でしかなく、決して答えではないので、一旦暫定答えボックスにぶち込み、私は適当な蕎麦屋で蕎麦を食べて帰った。これ以上考えていると、この電車は姫路まで行ってしまう。一番好きな食べ物、蕎麦かもしれんなぁ。
category
- 15分で書くやつ (4)
- DIY (2)
- uncategorized (874)
- 「でっかいの」完成までの道 (10)
- いま考えていること (10)
- お芝居のはなし (4)
- かばんのなかみ (6)
- きのうみた夢の話 (16)
- シルクスクリーン (2)
- フジロックフェスティバル (10)
- 宣伝 (4)
- 旅行 (7)
- 映画のはなし (35)
- 絵の展示 (5)
- 音楽のはなし (34)