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水が少ない

2020年12月7日 (月) 21:57

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「分かる」と「分からない」とを行ったり来たりしている。まだやってる。私ももうすぐ32歳だ、大人になればこの、厄介な行ったり来たりも終わるだろうと思ったのに、甘かったな。「分かる」ことが増えていってる実感があるのに、同じだけ「分からない」ことが増えていくのだ。だんだん水位が上がってくるような「分かる」と「分からない」に、どっぷり浸かりながら生きている。

私は分かりたいのだ。人の気持ちがちゃんと分かるように、想像力のある人に、つまり優しい人になりたいのだ。なりたい、のに、いつまで経っても私はまるで優しくない。想像力の及ばないことがまだまだ山のようにあり、そのことに気づくたびに自分にがっかりする。仮に似た経験を自分の中から取り出すことができて、それを「分かる」ということにしたとしても、その行為自体にあとから嫌悪感が湧いてくる。「分かったような顔しやがって、何様のつもりやねん」と脳内で声がする、うるさいうるさい、私だってそんなこととっくに気が付いてるもん、でもじゃあどないせぇっちゅーねん、あーうるさい、ごちゃごちゃうるさい。

そもそも「優しい人になりたい」とは言うものの、優しいというのはどういうことなのか。型みたいなのがあるの?いや、ないよ、そんなもんはない。

「分からない」ときに、それでも「分かるよ」と言うこと自体は、そう難しくないかもしれない、慣れればできるようになるのでは、もしその方が相手にとって「優しい」反応なんだとしたら、もし「わかってもらえなかった」「ひとりぼっちだ」と感じずにいられるのだとしたら、私は迷わずそれを選びたい、選ぶぞ、と思っていたけど、実際はそんなこと全然無理だった。「分かる、その気持ちがよく分かるよ」と言いたいのに、心の底から分かりたい、寄り添いたいと思っているのに、全然無理、結局声に出せたのはただ本音の本音でしかない「ぜんっぜん分からない、こんなに分かりたいのに、でもまじで分からない」だった。不甲斐なく、実に情けないが、素直な気持ちを本音で話す以外、私にできることはなかった。はー、ままならん。ままならんまま。

でも私にとって何より大事なのは、大切にしたいのは、「分かり合う」ことではない。ないと思う。私は「分かり合えないけど一緒にいて、分かり合えないけど、分かり合えないから話をする」ほうを大事にしたい。分かり合えなくてもいい、もういいから、それでも一緒にいて、分からないけど尊重したくて、手をひいたり、背中をさすったり、しながら、一緒に行きたいんだよ。好きだからだよ。置いていかないで。

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