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来年インサイドヘッドの続編やるぽいよ

2023年12月7日 (木) 20:45

uncategorized

もう12月上旬が終わる。やばい。間に合わない。いろいろが間に合わない。整理のためにも、今月やることを書き出す。

  • あと15本ぐらい映画を観る
  • 今年中に一回ぐらいは会おう、と私が言った友人に会う
  • 年賀状を用意してポスト投函まで済ませる
  • 餅をつく(恒例の家族行事)
  • お正月に使う箸袋を完成させる(水引は姉に頼む)
  • 家族へのプレゼントを用意する(買うだけにすればよかったのにもっと面倒なやつを考え付いてしまった)
  • もっちゃんへの誕生日プレゼントを用意し、直接渡しに行く(できれば年内が良いが年明けでもいいことにする、これはもっちゃんへの甘え)
  • 友人からの頼まれごとを完成させる(一旦公開までは持って行くべき)

年賀状と家族へのプレゼントはデザインが要るのでさっさとやったほうが良い、まじで今週末とかで終えてほしい。年賀状は特に、印刷に出したいのでその日数も計算するとまじで今週末で終えてほしい。問題は辰年の年賀状なんて絶対どうにも出来ない、という点。辰は描けない。辰を描く画力が無い。今から辰を描く画力を身に付けるのは無理、時間ない言うてるやろ。諦めてなんか違うものを描く、なにがいいかな。くまちゃんで良いですか?
50部刷るといつもかなり余るので、20部ずつ違う色のを刷ろうかな。……時間ないのになんでこういう時間かかりそうなやつを思いつくんやろ。でも楽しそうやんな。

映画15本はいける、いや絶対いく。どうにかする。ただ29日以降はほぼ家族行事で走り回って夜は肩こりにうなされながら早めに寝るしかないので実質あと20日間くらいしかない。上旬で貯金を作っておくしかない。あとは帳尻合わせで別に観たくないやつを観る流れにしたくないので、10本切ったらあとどれ観るかを決めたほうが良さそう。残りは来年にまわす。どうせ来年も映画は観る。

もっちゃんへの誕生日プレゼントはアタリをつけてあるものの、いつのまにか当該製品が廃盤になっており、買えるかどうかアヤシくなってきた。「これでたっぷりのミルクティーを飲んだらかわいい」という具体的なアイディアがあるのでどうにかしたい。スウェーデンから輸入する、という手もあるが、出来れば避けたい。トラブルがあると面倒やし。

友人からの頼まれごとについては、友人本人の作業待ちの部分が多いにせよ、私が進められる部分を先にやっておくべき。場合によってはスケジュールを提示してケツをたたくところまでが私の役割と思う。……昔からそうなので。

全体的に「どうにかする」のやつしかなくて具体的な方法とか一切ないな。ははは。ま、どうにかします。

バスで行く

2023年12月4日 (月) 21:36

映画のはなし

今年は映画を200本観ることにしている。現時点で183本まで来たので、いけると思う。
ヨウリーが「タナノゾの200本を振り返る配信やろうよ」と言ってくれたので、年明けにやる予定です。また告知します。
一応「観たことない映画200本に限る」というルールにしていたけど、「観たような気もしなくもないけどはっきり覚えていない」みたいなのはOKとしている。自分ルールでしかないので別にそんなに厳密にしなくてもいいんちゃうんか、と思わなくもないが、性格が細かいので……

『アメリ』のデジタルリマスター版の上映が始まっているので、週末は映画館へ行った。『アメリ』は私が人生で一番繰り返し観た映画だと思う。少なくとも100回は観ている。初めて観たのはたぶん14歳のとき、父がBSかなんかで放送されていたのを録画したビデオテープで、以降暇さえあれば観ていた。当時はリビングにしかテレビがなかったので、弟がよく「またアメリ観とうやん、観過ぎやろ、年間何回観てんねん」と言っていた。年間だと20回くらいかも。
私の中学校時代は人生のほとんどすべてが部活で構成されていて、朝練行って授業受けて夕方部活やって日が暮れたら帰る、週末は部活、ずっと部活、夏休みも冬休みも春休みもずっと部活、という生活をしていたので、テレビもほとんど観なかったし、流行りの音楽も知らなかったし、雑誌を買ったりファッションに興味を持ったりもしなかったし、だから公開当時2001年の『アメリ』の様子は全く知らない。社会的ブームになるほど人気があったことも、後から知ったことだった。インターネットもまださほど普及していなかったし、SNSも無かったので、私は『アメリ』が世間一般にどのように受け入れられているのかを何も知らなかった。語り合えるような友だちも当然いなかったので、ひとりで繰り返し観るしか気持ちの向けどころが無かったんだと思う。そら100回ぐらい観るやろ。
高校に入学すると、ようやく『アメリ』が好きだと言う友人と出会うことが出来た。私は『アメリ』が好きどころか、『アメリ』を知っている人にすら会ったことが無かったので、ものすごく嬉しかった。その友人とはそこから約10年後、一緒にモンマルトルへ行き、カフェ・デ・ドゥ・ムーランにも行ったし、もちろんクリームブリュレをスプーンの裏面でバキッと割って食べた。

そんなだったから『アメリ』を映画館で観るのは初めてのことだ。デジタルリマスター版なだけあって、確かにCG部分がキレイになっている。ストーリーの流れはもちろん、台詞(というか翻訳字幕)もほとんど覚えているけど、観るのは結構久しぶりだったので楽しめた。ニノみたいな独創的な趣味を持っていて、モテはしないけど人当たりがよく、アメリのまどろっこしい距離の詰め方を気味悪がったりせず、なおかつ応戦できるくらいの大らかさがあり、下がり眉の目元がかわいい男の子、めっっっちゃ好み……と思いながら観たけど、こんな人おらんよな~ははは、映画映画。

同じ日に『ゴーストワールド』も観に行った。奇しくも『アメリ』と同じく2001年公開の映画だったらしい。
『ゴーストワールド』を初めて観たのはたぶん17歳のとき、友人が「ゴーストワールドって映画の、主人公の子がのんに似てる」と言ったのがきっかけだったと記憶している。当時は既にミクシィがあり、日常的にインターネットが使えるようになっていたのですぐに『ゴーストワールド』のメインビジュアルだかスチールだかを見ることが出来た。友人が「主人公の子」と言ったのはソーラ・バーチ演じるイーニドのことだ。ボブヘアに眼鏡、古着っぽいTシャツに短めのボトムス、確かに似てる、と思ってツタヤさんでDVDを借りて帰った。
観てみると、似ているのは外見よりむしろ性格だった。偏屈で口達者で皮肉屋、いつでもどこでも波風を立ててばかりいて、大体いつも不機嫌、人を「ダサい」とこき下ろすわりに自分も十分ダサい、自覚もあるけど友人には知られたくない、さらに「自分は何者かになれる」となんの根拠もなく思っているところも、めちゃくちゃ似ていた。

17歳を2回繰り返せる年数を生きた2023年の私は、結局何者にもなれないまま育った町を去るイーニドのことを、母親のような気持ちで見るにはまだ早く、希望を込めて我がことのように見つめるにはもう遅い、といった気持ちで観届けた。何者にもなれなかった後の人生を生きている2023年の私は、そのことを嘆くフェーズすらもとうに終え、毎日ゴキゲンで、楽しくやっている。望んだ仕事に就いて、恵まれた環境に身を置き、かわいい家に住んで、好きな人たちにいつでも会える。あのころなれると思っていた「何者」とは、いったい何だったんだろう、もう思い出せない。具体性なかったもんな。微塵も。
イーニドは町を出て、もう戻らないのだろうか。でも「夢はある日突然町を出ていくこと」と言っていたし、だから夢は叶ったとも言える。とはいえ案外すぐに戻ってくる気もする。「こんな退屈な町」と言いながらも一生をそこで暮らす人、いっぱいおるもんな。
おもしろかったのは「私の家、ほとんどシーモアの家とおんなじだな」と思ったことだった。愛すべきガラクタでみっちりと埋まった私の家は、シーモアの家とほとんど同じだ。私とシーモアの違いはその家を尊重してくれない恋人を一時的にでもつくり、家に上げているところだと思う。あなた自身だけじゃなくて、あなたが大切にしているものに敬意を払ってくれない人とは、一緒にいちゃいけないよシーモア。

一方、シーモアの終盤の振る舞いは、大人になった今観ると、全く受け入れられない。映画全体のテーマ自体は普遍的なものと言えるけど、でもディティール詰めていくとかなり厳しい部分があると思った。でもこれは映画がどうこうではなくて、時代が進んでいることの証だったり、私の感覚が年齢とともに変化していることの証だったりする。
「今は差別を隠すのが上手くなった」という台詞についても「うーーーんここから20年以上経ったけど差別については今もまだそのへんで足踏みしてるわたぶん世界中が、すみません不甲斐なくて」と思った。今は「隠すのが上手くなった」というよりむしろ「差別なんかしてないのに」とか「差別は無い」みたいなことを堂々と言う人が多い気すらする。……おい後退してないか。

いずれの映画も再上映用にパンフレットが制作されていたので、買って帰った。観たことある映画も、映画館で観るのは楽しいね。

ところで今日はかわいくてかっこよくて素敵なジンくんのお誕生日です。おめでとうジンくん、今年もずっと好きだったわ。あったかくして、よく食べて、よく寝られますように。

里の秋

2023年11月22日 (水) 20:18

uncategorized

『しずかなインターネット』を始めた。短い日記を書くことにしようと思っている。フォロー・いいね・リプライ、みたいな機能はない。全く知らない人の文章をいくつか購読することにしたけど、これは相手に通知されてるんでしょうか。されてないといいな、気味悪いと思われたくないし。
機能に不足はないと思うけど、改行が出来ないのだけちょっと気になる。改行はさせてほしい。初期アイコンが犬の横顔なのはかわいくて気に入っている。

「あまり強固につながろうとしない」ということが魅力に成り得る、ってことは、それだけ「誰かとつながっている」ということがインターネットではスタンダード、ってことなんですかね。だって本当の本当に心底「どこにもつながってなくていい」のであれば、そもそもインターネットに書く必要はないわけで、だからレベル感、みたいな話なんでしょうかね。

私はこのサーバーに14年(…14年!)文章をアップロードし続けているが「ここに置いている以上は、いつか誰かが何かの拍子にうっかり読むかもしれない」ということをいつも念頭に置き、そこが魅力でもあると感じている。「いつか誰かが」の「誰か」には、もちろん私も含まれる。
あと「万が一誰かが読むかもしれない」と思って書く文章と「私以外にこのノートを開ける人は誰もいないから絶対に読めない」と思って書く文章は、明らかに別物である。後者は10代から20代前半にかけて散々やったが、燃えるゴミの日に出してしまったので今はもう私も読めない。
まぁいずれにしても、どっかになんか書いてないと死ぬんだと思う。

そういえば私は読むのも観るのも聴くのも描くのも作るのも好きだが、わりとムラがあり、例えば今年は観るのを多くやったので読むのはだいぶ減った。描くのと作るのはほとんどやっていない。
でも書くのは、書くのだけは、仕事でもなければ誰に褒められるわけでもなく金も稼げない上にいいねボタンすらないのに、ずっとやっている。「なんか書いてないと死ぬ」以外に、どんな理由があるというのだろう。

ここでいいから

2023年11月21日 (火) 20:55

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「大事にする」ってどういうことだろう。ついこないだ「気を付ける」が難しい、と書いたが、同様に「大事にする」も難しい。

下岡晃と安部コウセイのライブを観にいった。終盤、『抱きしめて』を歌うと言った下岡晃にコウセイさんは「俺もちょっと入って良い?」と聞いた。一緒に歌ってもいい?という意味だ。続けて「いや、大事な曲だからさ、一応許可を、と思って、敬意を」と言った。
私は下岡晃ではないしアナログフィッシュでもなく、ただファンであるだけの何者でもない人間なのでこんなことを言うのはおかしいが、確かに『抱きしめて』はとても大事な曲だ。本当は「とても大事」とか言うのもはばかられるくらい。
この曲がどのように生まれ、どのように歌われてきたかを知っているし、どのように大事にされてきたのかを見てきた。10年以上経つ。だから、コウセイさんが引いた一線のような“敬意”をとても嬉しく思ったのだ。大事なものを一緒に大事にしてくれることが嬉しかった。いや私がこんなことを思うのは、全くもっておかしいが。どの立ち位置で言うとんねん。

帰り道「大事にする」について思考を巡らせたが、特に答えは出なかった。日々生活していると答えが出ない問いのほうが圧倒的に多い。大事にするって、どういうことなんだろう。なんかきれいな箱に入れて、きちんと鍵をかけて、家から出さずに仕舞っておくこと?そういう方法もある。あるいはずっと身に付けて、くたびれてきたのを直してまた使って、いろんな人に触れてもらって、欠けたところを継いで、それでもまだ持ったままいるってことかな。そういう方法もある。

『抱きしめて』がどのように大事にされてきたかは、後者が近いと思う。発表された当初は震災直後という時期もあいまって、繊細で、消えてしまいそうな空気感があった。乱暴にすると割れるんじゃないか、みたいな感じ。演奏は何度も繰り返された。CDになるころには健ちゃんが歌うパートが出来たし(最初期はなかったと記憶している)、ライブではお客さんも一緒になって歌ったし、Ryo Hamamotoのギターソロでアウトロを長くやる日もあってあれはすごくかっこいいし、下岡晃はインスタライブでこの曲を数十回演奏してきた。今『抱きしめて』に似合う単語は「繊細」ではなくて「強度」だと思う。素材っぽさやむき出しの雰囲気はずっと変わらないけど、変質した、ように感じる。両手で包むようにしてしか持ち運べないような曲だったのに、今はもたれかかっても大丈夫だと思う、同じ強さで押し返してくれる。

「大事にする」っていうのは、自分がどんなふうに大事にしたいかを、考え続けるってことなのかもしれない。お、なんか答えめいたものが出てきたぞ。
「大事にする」に型はないので、大事にする人とその対象の組み合わせによって無限にその方法があり、無限にあるということはつまり「その大事のしかたは間違ってる」とかは、誰にも言えないってことだ。でも対象に意思がある場合は「その大事のしかたは望んでいない」とか「このように大事にしてほしい」とか言われる場合もある。そういう時は聞き入れて、全部じゃないにしても受け入れて、調整が要るけど、でもまずは自発的に自分がどのように大事にしたいかを考えるところからしか「大事にする」は始まらない。お、なんか答えめいたものが出てきたな。

答えめいたものはただ「めいたもの」でしかなく、決して答えではないので、一旦暫定答えボックスにぶち込み、私は適当な蕎麦屋で蕎麦を食べて帰った。これ以上考えていると、この電車は姫路まで行ってしまう。一番好きな食べ物、蕎麦かもしれんなぁ。

ふあんてい

2023年11月17日 (金) 22:16

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とあるドラマを観ていると、登場人物たちが「分かっている私たち」が、いかに「分かっていない私たち以外の人たち」に苦しめられているか、という話を頻繁にするので、しんどくなってきてしまった。自分の繊細さや感受性の強さを守ろうとするのは分かるし、もちろん自分で守るしかないから大事にしてほしいけど、でもそれを武器にして誰かを攻撃するのは違うよな、と思う。そもそも繊細さは性格的な特性ではあるけれど、優劣ではないはずだ。

何よりしんどいのは「でも私もこれやってるな、常にじゃないかもしれんけど、でもやってるとき絶対あるよな」と思ってしまったことである。私は自分のことを繊細とは思っていないし、感受性が強いとも思っていないし、人から「繊細ですね」と言われたこともないけど、でも幼少期に「なんで私はいつでも“みんな”の中に入れんのかな」と感じた記憶は今もずっとあるので「なんかズレとるんやろうな私は」とは思っている。ティーン期にはこの「ズレ」こそが私のアイデンティティーなのだから気にせず堂々と振る舞うべきと思おうとしたが、それもなんか違うぞ、と気づき「そもそも“みんな”など幻想だ、無いものだ」と思うころにはハタチをとうに過ぎていた。今は「“みんな”があることにしたほうが上手く扱えそうなときはそうしてもいいし、もしその“みんな”に楽しく入れそうなときは入ってもいい、でも入れなさそうなら無理しないし、入れないことで自分を責めたりしなくていい」と思っている。
でもこれもうちょっと補足が要るかもしれない。例えば「自分の都合で“みんな”があることにしたんだから、“みんな”を馬鹿にしたり悪意を持って接したりしたらいけない」を足さないといけないかも。
だって「分かっている私」に感じる嫌悪感の名前を知っている。これは「同族嫌悪」だ。私もやってるぞ。「分かってる私」や「分かってる私たち」をそれ以外と分けて「分かってない人たち」ひとまとめにして悪口言うの、私もやってるぞ。つーか私、その場だけで適当に言う悪口のジャンルが全部これかもしれんな。悪口っつーか悪態?
めっちゃ気をつけたい、悪口は要りそうなら言ってもいいけど、でもそもそもそこに優劣はないと、忘れないようにしたい。

ところで「気をつける」っていっつも具体的な解決策になってなくて難しいなと思う。気をつけようと思っているのも私だし、実際に気をつけるのも私だし、気をつけないといけないようなことだと気がついてしまったのも私なのに、全部を私いっこぶんの脳でやりくりしないといけないの、めっちゃ難しい。

あとで読んだら何が何だか分からない文章を書いてしまった。読み返したら消すしかなくなりそうなのでこのまま公開する。

붕어빵

2023年11月17日 (金) 20:30

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寒暖差が激しく、日の当たるところを歩いて汗をかき夜は冷える、みたいなことを繰り返していたらあっさり風邪をひいた。「風邪ひきそう」と思ったらもうひいている、みたいな感じ。馬鹿っぽい。
熱がほとんど無いので大丈夫だとは思いつつ、コロナもインフルエンザも流行っているので念のため検査したが、どっちでもなかった。普通にただの風邪だった。風邪ひくの久しぶりな気がする、と思ったけど、調べたら去年も同じくらいの時期にやってるっぽいす。なんやそれ。

“調べたら”、というのは妙なことで、私自身は去年自分が風邪をひいたのかどうかを全く覚えていないのだけど、SNSやブログに書いていれば調べはつくのだ。紙の日記なら検索に時間がかかるけど、ブログは「風邪」とキーワードを入れて調べられるのですぐに分かる。便利やね、と思う一方「嘘を書いたら嘘がほんとのこととして残っちゃうな」とも思う。ま、そんな大層な話ではないけど……ところで嘘っておもしろいよね、嘘について勉強したい。嘘ってどこの管轄なの?心理学?管轄??

急に寒くなったので慌てて毛布を注文した。毛布ってなんでこんなダサいのしかないんだろう。世の毛布が全部ダサい。機能としては魅力的でも、デザインがダサいものを家に置きたくない。かと言って寝具だからデザイン性のみを重視するわけにもいかない、寒いのは勘弁してほしい。っつーか別に「驚くほどオシャレな毛布をください」とか思ってないのに、こんなに無いもんか。どうせ隠れるやん、と思うことなかれ、私は羽毛布団の上に毛布を重ねて寝るので、毛布のデザインは重要です。「知らんがな」という声が聞こえてきそう。母の声が。
ベッドカバー買うしかないか……

灯油も買わないといけないし、ストーブを出さないと。去年の経験を活かしてコートは既に倉庫から出してある。今年は全部クリーニングに出したので、毛玉もきれいに取って美しく畳んであってうれしい。さすが、やっぱりプロは違うな~ケチらずに毎年クリーニングに出そう。「そんなに高いコートじゃないし」とか言って曖昧にしてきたけど逆な気がする、そんなに高いコートじゃないからこそ、ちゃんと手入れをしたほうが良い気がする。

今月もジンくんの動画がアップされて、あまりの愛おしさで10分くらい動けなくなった。しゃべって動くキム・ソクジン、やっぱ威力がすごいし、ありがたみがすごい。毎度のことだが初回再生時は「ジンくんがメッセージをくれている」という事実そのものを受け止めるだけで胸がいっぱいになってしまい、ジンくんが何を話しているのか全く理解できない。単語くらいなら聞き取れるはずの韓国語が一切分からないし、字幕など一文字も読めない。少し動悸もする。「ま、まばたきを、してる、かわいい」とかで終わる。そらまばたきぐらいするやろ。4~5回再生すると、ようやく話の内容が頭に入ってくるので、やっと「あ、プンオパンを、食べてねって言うてるんか、かわいい」みたいな感じになる。不甲斐ない。
「かわいい」は語尾みたいな感じなので、全部の文章に付きます。ジンくんかわいい。

look how they shine for

2023年11月16日 (木) 20:27

音楽のはなし

東京ドームでColdplayを観てきた。ライブを観るのは私の記憶が正しければ2011年のフジロック以来2度目だ。フロントマンのクリス・マーティンは「2025年にリリースする作品が最後になる予定」とインタビューで答えており、もしかしたら日本で公演をするのは最後かもしれない、と思ったし、友人が「のんが行くなら一緒に行く」と言ってくれたこともあって、チケットを買った。
でも、もう一回記事をちゃんと読んだら「そのあとはツアーだけをやる」みたいなことも言っているようなので、まぁ2025年以降も公演を観る機会はあるのかもしれん。それならそれでいいね。

ライブ前、友人と「自分の創作物(例えば小説や漫画や音楽)が店舗に並ぶのって、怖くないのかな」というような話をしていた。自分の作ったものを自分で売るところまではまだ感覚が掴めるし経験があるけど、例えば自分が書いた小説が印刷され、製本され、全国各地の書店に並び、誰かの手に渡っていくところを想像すると、確かに怖い。喜びももちろん想像できるけど、どちらかと言うと「途方もない」みたいな恐怖を感じる。
私は「だんだん“自分が作った”という感覚が薄れるというか、手元を離れていくんじゃない?」と答え、友人も概ね同意してくれた。

でもColdplayのステージを観ていると「必ずしも、そうじゃないかもしれない」と思ってしまった。古い曲も、新しい曲も、誰かとコラボした曲も、自分たちの手から放さずちゃんと握りしめているような、そういうライブだった。そういう曲だけを演奏する、と決めているのかもしれないし、どんなに年月が経って、作った日のことを忘れて、聴く人の解釈に委ねるようになっても、ずっと手を放すことなく握りしめておく方法を、知っているのかもしれない。
だって、客席からステージに上げたお客さんを隣に座らせ、キーボードを弾きながら『Fly On』を歌うクリス・マーティンを観ていたら「“今はもう手元に置いていない曲”なんだとしたら、そんなふうに歌えるものだろうか」と思ったのだ。

ライブ中盤には「世界に愛を送ろう」と言い、みんなでお祈りをする時間があった。祈ることに即効性が無いことなどとうに知っているけれど、祈ることからしかどんな物事も始まらないだろうが、とも思うので、5万人に向かって「戦争や虐殺や争いが終わるよう、みんなでお祈りをしよう」と大真面目に発信してくれる人が居るということと、それに同意し応える人が5万人居る、ということが素直に嬉しかった。こういう種類の希望を感じられることが、日常にはあまりにも少ないと思う。

入場時に配られたザイロバンドを腕につけて、演出の一部になれたことも嬉しかった。私は何かの一部にされることに対するネガティブな違和感を幼少期から捨てられずにいるし、だから学校も嫌いだったけど(ある程度ひとまとめにしないと対峙できない、というのは今では分かる、私だってそうしている)、Coldplayのこれに関しては嬉しかった。理由も理屈もわからないので自分でも不思議だ。東京ドームが黄色い照明だけで満たされる中で演奏された『Yellow』は美しかったし、同時に私の左腕も黄色く光っていて、遠い席の人たちからは演出の一部としてそれが見えていると思うと、私も何かの役に立っているんじゃないかと思えて嬉しい。
ザイロバンドは返却する仕組みになっているので、リサイクルされ、またどこかの国のどこかの公演で誰かの身体の一部になるのだろうと思うとそれも感慨深かった。
購入する仕組みになっていないのも良いなと思った。嵐のツアーごとにデザインが変わるペンライトは思い出になるから良いなと思うし、KPOPアイドルのペンライトはグループそれぞれオリジナルの形があってそれも楽しいし(ジンくんは自分たちのペンライトが早く欲しくて急かしたほど、と言っていた)、それぞれに良さを感じるけど、どちらも「チケット代を払ったのに、さらにペンライトも買う」点は変わらない。(他にも様々理由はあるだろうけど)金銭的に購入が難しい人が少なからずいることを想像するとつらい。演出に影響することを考えると出来れば買いたいと思うだろうし、周りの席の人がみんな持ってたら申し訳ない気持ちになったりするかもしれない。配布して回収するのは環境への配慮もあるだろうけど、それ以外にもポジティブな面があるなぁと思った。

結びとして書きたいことは特にない。私ひとりだったら行かなかったかもしれないので友人に感謝を込めて。いつもありがとうね。

たかをくくろうか

2023年11月10日 (金) 20:11

お芝居のはなし

『音楽劇 浅草キッド』を観てきた。新歌舞伎座は初めてで、役者のお名前が書いてある大きいのぼりが出ているのがかっこよかった。これぞ歌舞伎座って感じ。
舞台に立つ林遣都さんを観るのは『熱帯樹』以来だから2019年ぶりだ。下手から「ぬっ」とした立ち姿で登場し、その「ぬっ」具合が最高だった。あぁそうか、北野武の役なんだった、と思い出すような「ぬっ」具合だった。例えば『火花』の徳永も「ぬっ」としていたけど、北野武の「ぬっ」具合とは違う。っつーか林遣都さんてすごくきれいなお顔立ちをしていらっしゃるのに何故か「シュッ」としてはいなくて基本的に「ぬっ」としているところがめちゃくちゃ良くないですか。最高です。

NETFLIX版の『浅草キッド』は観ていたので、大体のあらすじは分かったうえで観たけど、“音楽劇”と付いているだけあって歌ったり踊ったり盛りだくさんな舞台だった。母は「ミュージカルじゃないん?音楽劇……?」と言っていたが、私は「下の句が“浅草キッド”やねんから“ミュージカル 浅草キッド”はおかしいやん、テンション変わってくるやん」と返しておきました。緞帳が開く前に鳴り出した楽器の音が明らかに生だったので「え、バンドがおるやん、やった」となり、林遣都さんについても「あ、あなたも歌うんか、ありがとうございます」となった。いやそらまぁ歌うか。いやでも歌うイメージなかったから……え、役で歌う機会ってありましたか?これまでに。タップダンスはやると思ってたけど、歌うと思ってなかった。なんでや。
カラオケでミスチルを歌ってる動画とかなら見たことあるけど、でも舞台とかお芝居で歌ってるのは初めて観た気がする。上手でした。いや上手って感じでもないか。なんというか「うまいことやってる」とか「乗りこなしている」という感じではなくて、ちゃんと役として、人柄とか性格とか生活とかが見えるような歌を歌っている、という感じだった。歌ってそういうところが良いよね、誰が何をどのように歌うかが、おもしろいと思うから、だから歌が上手いって何を指すのだろうな、とも思う。
でもひとり異様に歌が上手い人がいて、その人が松下優也さんだった。この場合の「上手い」は音域が広い、ピッチが正確、声がのびやか、舞台でも聞き取りやすい発音、喉が広くて鳴りが良い、みたいなことを指して言っているんですけど、ものすごく上手かった。思わず唸ってしまったし、拍手をしようと思う前に手が動いてしまった。山本耕史さんも上手かった。何より安定感がすごかった。

お芝居パートも見ごたえがあって、楽しめた。今野浩喜さんもすごく良かった。今野浩喜さんて、表情を変えるまでもなく顔だけで「人情みのある良い人」にも見えるし「性格悪いヤな人」にも見えるのがすごく良いな、と思ってたけど、舞台で観たら「あぁ声も良いわ」と思った。特徴あるから他に埋もれないし、特徴あるのに他を邪魔しない。森永悠希さんの声も、純真さとかあたたかみがあってすごく良かった。映画もドラマもずっと出てるしキャリア長いよなぁ~と思って調べたらまだ27歳なんだそうです。わっけぇな。

私の林遣都さんの推し方がユルすぎて「推してる」と言えそうにないが、まぁそんなことはどうでもいいし、舞台を観るのはすごく好きなので次回作も観たい。

Masked

2023年10月30日 (月) 19:56

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石井裕也監督作品が2本同時に劇場公開されている。ありがたく観る。
土曜日は『月』を松竹で観た。松竹はだいぶ前にkino cinemaという名前に変わっているが、場所も外観も内観もシアター数も何ひとつ変わっていないので無視して松竹と呼び続けている。名前が変わることに抵抗してやろう、という気持ちは別にないのだけど、その名前で呼ぶかどうかは私が決めるよ、とは思っている。だって、渋谷公会堂のことCCレモンホールって呼んだこと一度もないでしょう。と思ったら今はCCレモンホールですらなかった、今はLINE CUBE SHIBUYAというお名前だそうです。ぜったい誰も呼んでへんやろ(決めつけ)。

話逸れた。

『月』は小説が原作で、障害者殺傷事件を題材にした作品だ。原作は読んでいないし予告編も観ていないが、3行くらいのあらすじを読んだだけで胃が痛い。気が重い。気が重すぎて、パジャマから着替えられない。このままだと行かなくなる可能性があるな、と思い、スマホでチケットを買った。これで行くしかなくなるぞ。自分で観ると決めた映画で胃を痛めて、いったい何をやっているんだ。
2時間半、ずっと苦しかった。現実だったらそれこそ見て見ぬふりをして、その場から足早に離れていたかもしれない。「こういうことがあってさ」とすら、人に話せないかもしれない。
「○○という映画でした」とまとめることが出来ない。それは「人間とはこういうものです」と言うことと同義かもしれないからだ。私にはそんなこと出来ない。私だけじゃない、誰にもそんなこと出来ないよ。さとくん、君にも出来ないんだよ。
ちゃんと電気をつけて、窓を開けたかった。ずっと回っている扇風機がどういう演出意図かは分からないけど「何かを動かしているように見えて、何も変わっていない」という印象を受けた。扇風機じゃ空気は入れ変わらない。

原作も読んだほうが良いだろうな、でも読みたくない。気が重い。映画も観たくはなかったよ。でも、観てよかった。

日曜日は『愛にイナズマ』をシネリーブルで観た。シネリーブルは私が一番行く回数が多い映画館だ。スクリーン数は4つだが、作品数が多く、好みの映画がかかっていることが多い。地下にあってこじんまりしているところも好みだし、ロビーのあたりが赤い、ちょっと毛足が長めのカーペットになっているところも好みだ。照明も明るすぎなくて良い。12月にデジタルリマスター版が上映になるので『アメリ』のチラシが置いてあった。BSで放送されていたのをビデオテープに録画したやつを繰り返し観ていたのが20数年前のことだから、実は映画館で観たことがない。すごく楽しみ。

話逸れた。

『愛にイナズマ』は石井裕也が脚本・監督、主演が松岡茉優、めちゃくちゃ期待していた。『川の底からこんにちは』で石井裕也が好きになって『君と歩こう』が最高で、でも近年は「もう石井裕也の何を、どこを、石井裕也だと思って好いてきたのか分からない」と思ったりしながら生きてきたけど、久しぶりの、本当に久しぶりの「これこれ!これだよ!私が欲しかった石井裕也はこれ~!!!」状態になった。嬉しい。私が泣いたのは花ちゃんのお母さんが死んだからでも佐藤浩市が死んだからでもなく、石井裕也が好きだったから。
佐藤浩市、若葉竜也、池松壮亮が全員赤い服で画角におさまっているカットが気に入りすぎて、額に入れて飾りたいくらいだった。声しか出ない鶴見辰吾さんまで、役者陣が全員素晴らしかった。難しかっただろうなと思うのは窪田正孝で、めちゃくちゃバランス感覚が要る人物像だったように思う。だって、正夫くんがもし「なんか気持ち悪い人」になってしまったら、佐藤浩市に「ちょっと立ってもらえますか」と言ってハグするあのシーンは美しくなくなってしまう。前半パートで「まじでキツい、けどこういう人おる」ムーブを連発して後半に向けての鬱憤をチャージし続けてくれる三浦貴大、MEGUMIコンビもすごかった。三浦貴大さんのこと、本当に嫌いになりそうです。

たくさん笑ったが、扱ったテーマは『月』とほとんど同じものだったと思う。同じ台詞も出てきたし、いや意図的でないのかもしれないが。
何かを創ることは、そこにあるのに見えないものをよく見えるようにしたり、隠されているものを剥がしたり、見て見ぬふりをして蓋をしたものを皿に盛りつけたりするようなことなのかもしれない、と思った。

帰宅して、レンコンと豚トロを炒め煮にしたのを作って食べた。栗原心平さんのレシピは「うまいでしょ?ビール、飲むでしょ?」という声が聞こえてきそうで楽しい。

SS-9

2023年10月26日 (木) 21:33

uncategorized

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移動時間が長いとき、本が1冊あると安心する。スマホで音楽を聴いたり、韓国語のアプリをやったりしているのも良いけど、出かけた先でスマホの充電が切れたらやだな、とも思う。その点本は充電とか要らないし、多少嵩張るけど文庫本ならそんなに重くはない。

2
スマホを買い替えないと、と言い続けている。79%しか充電されないので出先で写真や動画を撮るとすぐに切れてしまうのが不便なのだ。今なら最新が15だから色だけ選んでさっさと買えばいいのだけど、全然テンションが上がらないので腰が重い。カメラとかの性能はもちろん良くなっているのだろうと思うけど、そんなにテンションが上がらない。3GSを買った時がiPhoneのピークだったように思う。無邪気な未来を手に入れたような気分だった。

3
堺雅人さんのエッセイが好きで、たまに読み返す。雑誌で連載されていたものなので一章が短く、移動中でも読みやすい。私は読書中に音が聞こえたりはしないタイプで、小説が映像化されたりしたときによく言われる「声がイメージと違う」があんまりピンと来ないが、堺雅人さんの声は知っているので、エッセイを読んでいるとご本人の声で再生される。執筆時は32~33歳だったようだ。追い越しちゃったな。

4
堺雅人さんは「哲学系のかたい本をまとめ買いし、お酒を飲みながら“なに書いてるんだか判んねーよ”といいながら読む」のがお好きだそうで、最高だな、と思います。

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『フェルマーの料理』というドラマが放送されており、文庫版の『フェルマーの最終定理』をどこへやったんだっけ、と探したが、家には無かった。誰かに渡した気がする、と思ったが、私の記憶が正しければムライに渡した。多分。
ドラマはチラッと見ただけなんですけど、フレンチのメインとしてナポリタンを作るシーンがあり「どんなに旨くてもナポリタンはあかんやろ」と思ってしまった。っつーかナポリタンの旨さって上限がありませんか。いやナポリタンをナメてるとかじゃなくて。私もナポリタンは得意な料理なんですけど、コツはケチャップとトマト缶かトマトジュースを少しグツグツさせて酸味をとばしてから具材と合わせることと、スパゲティを入れて具材と合わせたあとにバターを少し入れることです。

6
前髪を短くしすぎた。切ったのは私じゃなくて、美容師さんだけども……
10年以上通っていた美容室が閉店してしまい、しかたなく新規開拓を開始した。初っ端から知識抱負で勉強熱心な美容師さんに当たってラッキーだったけど、切るのはどう考えても前の美容師さんにお願いすべきだと思う。でもこれは美容師さんのせいではなくて、私のふたつある旋毛や、独特すぎる髪質、癖がつよい癖毛のせいなのでむしろ申し訳ない。

7
『The Astronaut』の発表から1年が経ったので、ジンくんのソロ活動を履修しなおしている。ジンくんは「1曲だけなんですけど」と何度も言ってるけど、でもその1曲を置いていってくれたことが、どんなにありがたかったかを握りしめるような1年だったと思う。好きが増す一方……
最近はBTSパッケージのクランキーが発売されたので、スーパーやコンビニでジンくんがおらんかな~と探す毎日。なぜかジンくんとジミンだけまったく見つからない。

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地元企業が作っている靴のアウトレットセールに行ったらお会計時に「LINE登録してもらったら1000円引きになります」と言われ「そんなに!!?」と声に出てしまった。セール品なので既に十分安いのに、ここからまだ1000円も引いてくれるなんて……8000円で2足買えた。うれしい。

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