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ふあんてい

2023年11月17日 (金) 22:16

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とあるドラマを観ていると、登場人物たちが「分かっている私たち」が、いかに「分かっていない私たち以外の人たち」に苦しめられているか、という話を頻繁にするので、しんどくなってきてしまった。自分の繊細さや感受性の強さを守ろうとするのは分かるし、もちろん自分で守るしかないから大事にしてほしいけど、でもそれを武器にして誰かを攻撃するのは違うよな、と思う。そもそも繊細さは性格的な特性ではあるけれど、優劣ではないはずだ。

何よりしんどいのは「でも私もこれやってるな、常にじゃないかもしれんけど、でもやってるとき絶対あるよな」と思ってしまたことである。私は自分のことを繊細とは思っていないし、感受性が強いとも思っていないし、人から「繊細ですね」と言われたこともないけど、でも幼少期に「なんで私はいつでも“みんな”の中に入れんのかな」と感じた記憶は今もずっとあるので「なんかズレとるんやろうな私は」とは思っている。ティーン期にはこの「ズレ」こそがアイデンティティーなのだから気にせず堂々と振る舞うべきと思おうとしたが、それもなんか違うぞ、と気づき「そもそも“みんな”など幻想だ、無いものだ」と思うころにはハタチをとうに過ぎていた。今は「“みんな”があることにしたほうが上手く扱えそうなときはそうしてもいいし、もしその“みんな”に楽しく入れそうなときは入ってもいい、でも入れなさそうなら無理しないし、入れないことで自分を責めたりしなくていい」と思っている。
でもこれもうちょっと補足が要るかもしれない。例えば「自分の都合で“みんな”があることにしたんだから、“みんな”を馬鹿にしたり悪意を持って接したりしたらいけない」を足さないといけないかも。
だって「分かっている私」に感じる嫌悪感の名前を知っている。これは「同族嫌悪」だ。私もやってるぞ。「分かってる私」や「分かってる私たち」をそれ以外と分けて「分かってない人たち」ひとまとめにして悪口言うの、私もやってるぞ。つーか私、その場だけで適当に言う悪口のジャンルが全部これかもしれんな。悪口っつーか悪態?
めっちゃ気をつけたい、悪口は要りそうなら言ってもいいけど、でもそもそもそこに優劣はないと、忘れないようにしたい。

ところで「気をつける」っていっつも具体的な解決策になってなくて難しいなと思う。気をつけようと思っているのも私だし、実際に気をつけるのも私だし、気をつけないといけないようなことだと気がついてしまったのも私なのに、全部を私いっこぶんの脳でやりくりしないといけないの、めっちゃ難しい。

あとで読んだら何が何だか分からない文章を書いてしまった。読み返したら消すしかなくなりそうなのでこのまま公開する。

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