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ソナタピアンエフォルテ

2021年10月14日 (木) 21:57

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自分で「ギターソロのとき、私に気づいたと思う、目が合ったし手を振ってくれたもん」、と発言したことを5日越しくらいで後悔している。酔ってもないのに、何を言っているんだろう。バカみたいだな私、恥ずかしいね。でも本当にそう思ったんだもの。

私自身の「ステージに立つ」という経験は、3歳で始めたバレエの発表会から始まり、最後は高校の、いつだろう、関西大会が最後かな。文化祭は学校の体育館だから除外するけど、あ、でも冬ぐらいに近くの芸大でビートルズを演奏するユニットみたいなやつに乗ったな。あれ2年の時?3年じゃなかった?2年間クラス変えがなかったので、記憶が混ざりやすい。
いずれにしても、もう10年以上前の話だ。

3歳のときはステージに上がったんだろうか、記憶がない。上手から出てお辞儀をし、下手にはける、ぐらいのことはしたかもしれない。チュチュは着たような記憶がある。
発表会のあとは姉とふたり、山ほどもらった花束に埋もれるようにして父の車で帰ったが、これが3歳の記憶かどうかはあやしい。
バレエのはなやかさ、しなやかさ、バレエ音楽、衣装、混み合ってざわざわした楽屋、が今も好きだし当時も好きだったが、私は身体がめちゃくちゃ硬いし目はまわるしお稽古は常に苦痛だった。子ども心に「だれにでもできることとできないことがある、わたしはバレエができない」と、いたって冷静に理解し、小学校に入る前には辞めてしまった。一方の姉は中学生になるまでバレエを続け、金平糖の踊りや白鳥の群舞でステージに立ち続けた。

私が上がったステージで、演者が一番少ない人数だったのは小学5年生のとき、トモミちゃんと2人で乗った声楽アンサンブルコンテストのステージだ。こじんまりしたホールだったが、鳴りが良く、家の風呂かと思うぐらいリラックスして歌った。練習した通りのことができたね、まじで上出来だったね、とふたりで言い合っていたら優勝した。副賞としてCD券をもらったのがうれしかった。3枚くらいアルバムが買える金額だった。母に「好きなん買いよ、優勝賞金なんやから」と言われ、駅前のCD屋でバックストリートボーイズのアルバムを買った。あとは元町のヤマハでボーイズエアクワイアのアルバムを2枚買った。ちなみにそっちの2枚は10年後くらいにバイト先の友だちが「さいきん夜、寝られないんだ」と言うので「これ聞きながら寝ると超寝られるよ、ってかちょっと召されるよ」と言って貸した、まま返ってきていない。CDは欲しければまた買えばいいので気にしていないが、彼はよく寝られているだろうか。そうだといい。

私が上がったステージで、一番大きかったのは京都会館のステージだ。京都会館はキャパが2000なのに私たち演者はたったの8人で、舞台は走り回れるほど広く、客席は遠くて暗くてほぼ何も見えなかった。カイちゃんがいつも通り、みんなの立ち位置を調整してくれたけど、舞台袖から立ち位置までの距離があまりにも遠くてちょっと笑ってしまった。
あれ、結果は銀賞だったのかな、覚えてないや。冒頭14小節の自分のパートはいまだに吹けるのに、結果を覚えていないのはアンバランスな気がする。でも正直ボーナスステージのような演奏の機会だったので、結果はどうでもよかったのかもしれない。

また、緊張するかどうかはキャパとは全く関連しない。
一番緊張したのは養父市でやったニグロだ。キャパは300くらいでかなり小さいほうだったが、私は呼吸が浅くなるほど緊張し、喉がギュウギュウに狭くなってド頭のCすら外した、手と足が震え「いますぐ走ってステージを降りたい」以外の感情がなくなった。自分が情けなくて泣いた。

ギターソロのとき、ギタリストは客席がどの程度見えるんだろう、ライブハウスのステージに立ったことがないのでさっぱり分からない。自分がステージに立った時の実感としては、客までの距離とステージの高さより、客電の明るさの方が関係すると思うけど、でももう10年以上前のことなので何も分からない。

ま、目が合おうが手を振られようが、まじでどっちでもいいんだが。

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