TANAKA NOZOMI

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しあわせにくらしましたとさ

2021年10月4日 (月) 21:50

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今ドラマでも映画でも小説でも、いわゆる「ラブストーリーもの」って作るのすげぇ難しいんじゃないかな、と思いながら、なぜかdtvのサジェストで表示された「プリティウーマン」をぼんやり観ていた。初めて観たのはいつだったんだろうか、思い出せないぐらい前だ、小学生とかかもしれない。
私はこの映画を真似してシャンパンを飲むときは苺を食べることにしている。

久しぶりの「プリティウーマン」はキャラクター設定が軒並み前時代的ではあるし、リチャード・ギアがいつもどこか息苦しそうなのはマッチョイズムのせいっぽいから気の毒だし、「女は男に選ばれるもの」「女は男の横に添えておくもの」「女は美しく着飾り黙ってにこやかに微笑んでいればよい」系のシーンが多く、今見るとなかなかキビしい。「マンションと車を用意したから一緒に来て欲しい」というプロポーズをジュリア・ロバーツが断るシーンには共感できるが、その後この件については特にどうもならない。車で迎えにきて花束を渡して終わる。結局ふたりがどうするのかは提示されず「ハリウッドに来れば夢が叶うよぉ~!」みたいなフワァーーーとした台詞で終わる。モヤる。
1990年の作品だから30年以上前だ、なるほど、ラブストーリーものは30年遡るだけでじゅうぶん古典になり得るのかもしれない。共感もできないし理想的でもないので歴史資料映像を観るような顔になった。っつーか公開当時もわりとおとぎ話みたいな受け止め方をされてたのか?もしかして?

私は比較的(どこの誰との比較かは知らんが)ベタ展開のノンフィクションラブストーリーが好きなほうだと思うが、それでもヘテロセクシャルどうしが恋愛のちに結婚、というストーリー展開はもはやファンタジーのように見える。別に、今まで見たことないような衝撃的なストーリ展開!とかを求めているわけではなくて(たぶんもうそんなん無い)、むしろこういうのは「お約束ぅ~!待ってました!」みたいな楽しみ方というか「ヨッ!ベタ展開!」みたいな、それこそ古典落語みたいな楽しみ方ができるし、そこが良いでしょ、とも思うけど、たまに「え、まじでやってんのか?まじなの?ちがうよね?」という作品を見かけることがあり、不安な気持ちになる。

私だけがそうなんだろうか…現代でも引き続き「ヘテロどうしが恋愛のち結婚、めでたしめでたし」のストーリー展開が好きで、共感できて、理想的だと思う、人が、マジョリティーなのか…?
もはや「マジョリティー」自体が消滅しつつあるだろう、これからは誰も彼もみな「マイノリティー」であり、そんな自分自身を肯定し、愛することが出来て、さらにそのことを生きとし生ける者すべての人類が許容し認め合い、尊重し合う世になるのだろう、と思っていたんだが、違うのか…?え、こっちがファンタジーなの?
わからん、何もわからん。こういう規模の大きいものごとの実態を掴むのって、どうやればいいんだろう、そもそも可能なんだろうか。

「ヘテロどうしが恋愛のち結婚」についてどうこう言うつもりはない。フィクションだろうがノンフィクションだろうが、その展開自体に文句なんかないし、選択肢のひとつとしてもちろん理解できる、けど、その先が「めでたしめでたし」なんかでは済まないことを、みんなもうとっくに知っているのに、え、知っていない、のか。は?え?その前提から既に違うの?え?

何もわからなくなったので確実なことを求め、友人が誕生日にくれたマリアージュフレールのおいしい紅茶を淹れて飲んだ。世は知らんが、私はマリアージュフレールのマルコポーロが好きだ、いつ飲んでも確実においしい。

世は知らんが、いやでも、世がどのような形を、どのような構造をしており、またどのような変化が起きているのかは、知りたい、知っていたい。ド矛盾。

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