TANAKA NOZOMI

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にっちもさっちも

2021年9月16日 (木) 22:49

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昔好きだった男は、集中すると身動きしない人だった。横に座って映画を観ていると「もしかして寝てるんじゃないか」と思うほど動かなかった。あぁ寝てるんじゃなくて、集中しているだけだ、息もしている、と気づいてからは、時々その様を横目で盗み見るのが癖になった。癖は直らないので、私はいまだに映画館で隣に座った知らない人を横目で盗み見ている。老若男女問わず。あんなに身動きひとつしない人は居ない。記憶ちがいだったのかな、という気すらしてきた。でもまばたきの回数まで減るようなあの姿が好きだったから、記憶違いだったとしてもいいや。

映画を映画たらしめているものは何なのか、また、映画を映画館で観る理由は何なのか、という話になり、特に結論が出ないので引き続き考えている。前者についてはほぼ考えたことがなかったし、後者については「映画は映画館で観る用に作られているでしょう明らかに」と思っていたけど、人に言語化して説明できない時点で「明らか」ではないんだろうな。フワーーーと生きてんな、全く。

それを見ないようにすることと、それを真正面から見据えたうえで無視することとは、まったく違うね。「それ」が何を指すのかは特に決めずにしゃべっていますよ。こうやって主語の無い話をし続けると「〇〇感」みたいなのだけが残って、どうにもならないんじゃないかと思う。思ってはいる。

休日、家にストックしてある果物を何もかも煮て瓶に詰め、パッケージをデザインして遊んだ。我ながらよくもまぁこんな自分に向いた最高の遊びを思いついたな、と思う。しかも、特になにか努力をしているわけじゃないのに、私はジャムを作るのが上手になっている。勘が良くなっているのかもしれない。まぁ自分で作って自分で食べて、あげくひとりで「おやおや、上手になっているな…」とか言うてるのまじで馬鹿みたいですけど。わはは。

気持ちを口にすると途端にそれに寄って行ってしまう。心はいつもまだら模様の球体であるが、うかつに「かなしい」とか「たのしい」とか口にした途端、まるで1色の裏がない紙みたいになってしまう、ときがある(いつもじゃないよ)。ペタンと貼り付けたようなそれが、私はおそろしい。気持ちの過程やグラデーションや手触りが抜け落ち、自分で「たのしい」と言ったのに、嘘をついたような気分になる。おそろしい。
おそろしいが、人と話す以上、言葉を介さずに私の気持ちを理解してもらうことなど不可能だ。つないだ手から何もかもが伝わるね、などとアホの顔で言っている場合ではない、そんな気分になれることはとてもすてきなことなのかもしれん、でも私はまもなく33歳になるのだ。平均寿命まで生きると仮定しても、もう3分の1をとうに過ぎている。アホの顔でにこにこし、言語化を諦めるにはもうとっくに遅く、言葉をちゃんと使えている、と胸を張るにはまだまだ早い。「うまいこと言う」のはもうやんないでも良いけど、過不足なく差し出せるだけの力は欲しい。そう、過不足なく。

ここまでワーッと書いて読み返したら「裏の無い紙などないが」と思ってしまったからもうだめだ。物理的に存在するものにはぜんぶ裏がある、どちらを裏とするかは決まっていないのかもしれんけど。あ、紐とか糸とかには裏はないのか?いやでもどこかに視点がある以上は拡大していけば糸にも裏があるだろう。もうだめだ、比喩もまともに出来ない。いや諦めない、諦めないけど、今日はもう解散。全員、夜は寝てください。

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