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雨の日

2021年3月24日 (水) 22:01

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日曜、5~6時間料理をした。目が覚めて、顔を洗い、歯を磨いて、服を着替えたらキッチンへ、銅鍋でカスタードクリームを炊き、プリンの下ごしらえを済ませ、サラダを作って食べ、シュー生地を焼き、ハンバーグを煮込み、鶏ひき肉を団子にして大根と煮込み、豚バラ肉を圧力鍋で角煮に、15時になったので冷蔵庫で冷やしておいたカスタードクリームに生クリームを合わせて「ディプロマットクリーム」を作ってシュー生地に挟んで食べ、疲れたのでひと眠りし、夜はプリンを蒸し、カラメルソースを作った。
何もこんな、親の仇みたいな量を一度に作らなくて良いだろうと思うのだけど、先週末はずっと出かけていて料理する暇がなかったし、平日は残業が続いているのでまともに料理する暇がなかった。

料理をしていると、あまり考え事をしなくていい。答えのないことをぐるぐる考えて止まらないとき、何か2~3品並行して作れば、答えのないことをぐるぐる考えているような暇は途端になくなる。効率の良い手順で、無駄のない手数で、と他に考えることがいっぱいできる。
私が答えのないことをぐるぐる考えるのは子どもの頃からの癖でもあるし、もはや趣味の一つともいえるかもしれない、でももう考えたくない、というときもある、そういうとき、料理が一番脳を開放してくれる。

しかも、料理はいたって生産的である。家から一歩も出ないで、誰とも話さないでも、手と頭を淡々と動かしていれば「何等かのおいしいもの」ができる。「日記を書く」や「ブログを書く」などのアウトプットが生み出すものはほとんど呪詛のようであるが、それに比べて、「料理をする」の場合は「何等かのおいしいもの」である。ほとんど呪詛のようなものは何の役にも立たない、とは断言できないが「何等かのおいしいもの」に比べるとなんというか、朗らかさに欠ける。
「何等かのおいしいもの」は、今日は食べる気が起きなくても、明日食べてもいいし、冷凍しておいて来週食べても良い。どんな気持ちで作っても、お出汁がしみた大根はおいしい。

作る時の心情で味が変化する、例えば「愛情がこもった料理はおいしい」というような言説もあるが、私は反対派。泣きながら餃子を包んでも、煮びたしに殺意を込めても、別に味とは関係ないと思う。「美味しさ」は絶対値。
あ、まぁ「その煮びたしおいしいですか?たくさん殺意を込めたんですけど」とか言われたらおいしくなくなるとは思います。それは普通に嫌、あと煮びたしに失礼。

ハンバーグと煮ものと角煮は粗熱を取ってジップロックに入れ、冷凍してなかひろに送った。私がこれだけの量を気兼ねなく作れるのは、なかひろが半分食べてくれるおかげだと思う。一人では到底食べきれん、飽きるし。
しかしひき肉料理ばっか送ってる気がする、すまん、私自覚なかったけどひき肉が好きっぽいっす。もしくは「料理がしたい…!」てなってるとき、何か捏ねたり丸めたりする工程をやりたがってる可能性がある。

私は私の知らないことをたくさん知っている人に会い、仕事だからこそ惜しみなく話を聞ける、というのが大好きなので打ち合わせの類はほとんどの場合楽しいが、私自身の仕事はそのあとがメインになってくるので、大変と言えば大変。打ち合わせをすればするほど自分の仕事が増えるし、そのあと案件としてスタートさせるのもクローズさせるのも全部私がやる、キツイ。
とは言え営業マンが居る会社には懲りたし、自分の仕事を自分の裁量と責任で回せるのは性に合っている気がする。私もディレクションしてくれる役職の人を上司に持ちたい、という気持ちもあるにはあるけど、そういう人が居たらいたで、よっぽど上手くやってくれないと不満に思うに決まっている。どうせ「こいつは私より稼いでるくせに私より仕事できひん」だの「私がぜんぶひとりでやったほうが早い」だの、文句を言い出すに決まってる、絶対にそう。だからこのままでいい、望んだとおりの人生だよ、よかったね、ありがとさん。ごたごた言ってないで手を動かせ。手と頭を動かせばいつか仕事は終わる。

年度末っぽさしかないな、事実いまめっちゃ年度末なんですが。
生きるぞ~!

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