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花の名

2019年9月18日 (水) 22:24

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去年の秋ごろ、友人が結婚パーティーをするということで、でも場所がちょっと遠いのと仕事を休めそうにないのとで行けなくて、せめてなんかお祝いを送ろうかな、と思い、最初はお皿とかお鍋とか、結婚祝いっぽいやつが良いだろうと思って、でも「物」をあげるのって結構むずかしくないですか、最近はわりと物を減らしていく生活を選択する人だっているし、私は「要らなくなったら捨てるか売るかなんかしてくれ、要る人にあげてもいいし」派だけども、やっぱり「もらったものを処分できない、特にお祝いでもらったのとかは無理」派の人もたくさんいると思うし(その気持ちも理解できるし)、「物」むずかしいでしょう。
長い文章だな。区切れよどっかで。

となると、あとは「何かおいしいものを贈る」や「お花を贈る」といった消え物系がある、お花はまぁ喜んでくれそうではあるけど結婚祝いだとたくさんもらうだろうし、食べ物はチョイスがむずかしい、持って行って一緒に食べるならまだしも、お祝いに贈れるようなものって何だよ、超むずかしい。実家が精肉店とかだったら牛を贈るけどさ。

私の手元に残された最後のカードは「絵を描いて贈る」だ、でも基本的に私は私の絵が「プレゼントになるもの」と思っていない。謙虚なわけでも卑下しているわけでもなく、ごく冷静に「要らない人にとっては要らないものである」と思う。
しかもずいぶん長いあいだ絵を描いていなかったので、思うようなのが描けるかな~みたいな不安、私は私が描いた絵を気に入らない時もあるしそれでも全然構わないけど、今回に限っては気に入ったのを贈るべき、少なくとも私は気に入ってる・好きっていう絵を描かないといけないだろう、できるのかな、みたいな不安もあって、半月くらいまごまごしていた。ロクな筆もないし。長く描いてないとどの筆が(自分にとって)一軍だったのか忘れる。

でもある日、彼女の、その友人のことを考えていたら、おそらく2~3度しか直接会ったことはないのに、そのことを覚えていてくれるんだな(私もわりと鮮明に覚えている、もう10年近く経つのに)ということや、インターネットが一番おもしろかった(というかTwitterが)時期を一緒に過ごしたことや、高円寺でやってたグループ展に来てくれたこと、そのとき彼女が履いていたスカートの柄、満席で入れなかった山手のえの木てい、とかを数珠つなぎ的にボロボロ思い出して、あぁそのあとのことを、いろいろあっただろうな、私もいろいろあったよ、それを話したいと思ってくれてるのかな、と思って、私も話したいこといっぱいあるな、って、もしかしたらそれで呼んでくれたのかな、と思って、そしたら顔が浮かんでしまって、記憶の中の彼女はニッコニコで、あぁ、描けちゃうな、これは、描けるやつ、と思った。お花の絵にしよう、色数多めにして、ギュッとしたレイアウトにしよう、胸に抱えられるぐらいのサイズがいいな、ブーケみたいなやつ描こう、描ける、と思った。

ただ、要らないとき捨てやすいようにしなきゃ、額装したほうが見栄えが良いけどダメだ捨てるときガラスの処分が面倒、割れたら危ないし、貼りキャンバスならまるごと燃えるゴミに捨てられる、軽いし、と思って、それでキャンバスに描いたんだけど、こんなこと考えてると思わないだろうな、なんかごめんなさい。
…これ、やっぱり卑屈なんだろうか、自分ではもう分からん。そんなつもりではない。

でも私が思うより、ずっと気に入ってもらえてて、部屋に飾ってくれてるみたいで、うれしい。どうもありがとう、とてもうれしいです。

こういう時、「うれしい」一択で良いんだよな、他の感情がいろいろあって、どれを口にするか悩んで、口にしたのが全部になるのが怖くて、それでもこういうときは「うれしい」一択で良いんだよ、最近ようやく分かってきました、人間に近づいている。

妖怪か。

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