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僕は今はいい

2019年4月19日 (金) 23:19

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「シンパシー(共感)」と「ワンダー(驚異)」のバランスについて考えている。
結構長く考えているのに、全然答えが出ないので、出ないやつなんかな、と思っている。
答えが出ないやつはどうするかっていうと、自分なりの落としどころを見つけて、そこに入れておくしかない。
落としどころは答えではないので、その落としどころが「違うかも」と思ったら、また別の落としどころが無いか考える。

共感によって出来た友だちがいて、ってか友だちは大体それで出来ると思うけど、あぁ大好きだな~と思ったらその後は「細部の差異」を見つけてって、私はそれをおもしろがりたいのだけど、そうじゃない人ももちろんいて、そうなると「価値観がちがう」ということになってしまって、なんとなく疎遠になる。
私としては、細部の差異を見つけて、あぁ似てると思ったけど、こんなに違うところがあったね、でも認め合える、大好きだよ、これからも一緒にいようね、って言いたいんだけども、あんまり、この考えそのものに共感を得られない。
別に「なんでだよ!!!」みたいな気持ちはない。怒ってるとかじゃない。
まぁでもめんどくさいからかな、私が、その気持ちはわかるわ、私も私がめんどくさいっすよ。でも私は私であることをやめたくてもやめられない。

こういうことをぐるぐる考える時「細部の差異など見出すのは 実は野暮なことかもしれないのさ」という歌詞の歌を頭の中で再生し、「そうかもね」などと思う。
確かに、粋か野暮かで言ったら、まぁ野暮か。「かもしれない」にしておいてくれて、どうもありがとう。音楽にたくさん救ってもらった人生だったな。みなさんさようなら。

でも私たちは根本的に違う生き物じゃないですか。並んで桜を見て「きれいね」って言っても、本当は見えている色が違うし、たったいま吸った息に含まれるものも違うでしょう。
違う親から生まれて、違う土地の水を飲んで育って、毎日違うお布団で寝てきたでしょう。
それでもなお、今同じものを見て、きれいだと思う、その「共感」を素敵だな、愛おしいな、と思うでしょう。
その後よ、その後どうすんの、「共感」の後、「驚異」を愛す以外、どこへ向かうの。向かう先はどこなの。

もしできるなら「どこへも向かわない」生き方がやりたいけど、それが一番むずかしくない?
たとえば芸能人がよく分からんお店を始めたり、聞き馴染みのない資格を取ったりするときに「この人どこに向かってんのwwww」というような野次り方をする人がおるけど、あれ私、なんか妙に傷つくんだよな。私のことを言われてるんじゃないのに。
明確に死に向かっていく仕組みやんか全員、何にも向かわない生き方ができるなら、それがいいよ、身軽で、うらやましいよ。
でも出来ないんだよ。そう言うお前はどこに向かってんすか。死だけかよ。

あ、別に「高め合いたい」みたいな話じゃないよ、上下の話はしてない、私は上下の話には全般的に興味がない。「お互いに高め合う関係」とかの話はしてない、そういうんじゃない。それに興味がある人を否定する気持ちもない、でも私は興味ない。

そして考察はつづく。

あと、こないだTwitterにホイホイッと書いた感情について、なかひろに「何がどう幸せ?どんなふうに?」と聞かれていて、今は「自分が作ったものを人に食べてもらうことによって得られる幸せ」について考えている。
なかひろをサンドバッグにして感情を整理・分析・言語化している自覚があるけど「もういい、やめてくれ」と言われるまで続けたい。なかひろは「もういい」と思ったときにちゃんと「もういい」って言ってくれると思ってる。
あ、これが「信頼してる」ってやつかな。「甘えてる」と混同してたけど、「信頼してる」はこれかも。そうだといいな。

考えることは、穴を掘るのに似ている。記憶と仮定を左右の手に持って、穴を掘るような感じがする。
感情の話、一生できるなぁ。脳がんばれ、超がんばれ。

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