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確定前夜
2022年9月28日 (水) 21:11
自分の創作、作るものについて何度か文章を書こうと試みているけど、最終的に「誰が読みたいねんこれ」と急に萎えてしまい、下書きが増えていく。投稿した他の文章だって、全部「誰が読みたいねんこれ」のやつしか無いというのに、なぜ創作についてだけ書き終えられないのかが自分でも不思議だ。
とはいえ自分の創作について何かきちんと言い切ったり言い終えたりすることが出来るのは、もっとずっと後なんじゃないかとも思う。だって始めるぞ!と思うことなく、いつのまにか何か作っていたし、努力して続けるぞ!と思ったことも、これで終わりにするぞ!と思ったことも無いのだから、濃淡の差や程度の差こそあれ、今後も勝手に続いていくだろう。続けていけたらいいなぁ~とも思っている。終わっていないものについて書き終えられないのは、当然のことかもしれん。
一方、仕事については始めるぞ!と思って始めたし、自分自身の表現の場・創造の場とは思っていないので、もう少し冷静な視点がある(と思いたい、けど自分のことなので結局は主観でしかないから確証は持てない)。根本的なところに「お金くれるなら何でもやるよ」が敷いてあるし、ひっくり返せば「お金くれないならやらない」ものでもあるのだ。だからいわゆる「好きなことを仕事にする」みたいなこととはちょっと違う。好きか嫌いかで言えば好きだが、苦でない、と言う方が近い。冷たく聞こえる感じもするけど、仕事にも同じように愛着がある。ただ種類が、性質が違う。
あまり仕事だけを自分自身の表現の場・創造の場にしすぎるとしんどいんじゃないだろうか。他の人は知らんし、なかひろ以外とこういう話をしたことがないが、私は多分しんどくなると思う。例えば3案もデザイン案を出したのに「んーどれもイマイチっすねぇ~」などと言われたときに、いちいち「自分自身を否定された」と感じていたら、精神的に参ってしまうと思う。「ほな自分でやれや」ぐらいの精神性でいないとやっていけないし、そもそも万人が好むデザインなんて存在しないのだ。適度に受け流していかないとこんな仕事続けていけない。
そりゃあ「3案出したのにどれも刺さらんとなると今後のスケジュールがヤバいな、どこで巻こうかな」とか「予算的にだいぶ厳しくなっちゃうな、赤になったら嫌やな」とかは思うので、もちろん精神的に負荷はかかるけど、でもそれだけのことだ。
このあたりの線引き・区分け・分類について、定期的に文章にし、置いておきたいと思う。今後変化があったとき、もしくは変化を欲したときに、あぁ33歳のときはそう思っていたんですね、と戻ってこられるようにしたいからだ。そのとき共感できなくても、全く違うことを考えていたとしても、少なくとも33歳のこの日は、そんなことを考えていたんだなぁと思いたい。
とはいえ「思いたくない、知りたくもない」に振り切ったらこのサイトはサーバーごと消すと思う。
あらゆるものごとは「暫定」ですね。そんなことより秋が来てくれてうれしい、日によってまだ29度ぐらいあるけど、私は無視して、もう秋が来たことにして生活しています。
それだけが愛のしるし
2022年9月22日 (木) 21:51
婦人科系のアレで、なんかアレなものがあるかもしれん、もし本当にあった場合はちょっとアレなので、とりあえず詳しく検査してこい、と紹介状を書かれた。ずっと貧血気味なのも、そのアレが原因かもしれんらしい。
詳しい検査はたいてい大きい病院で行われる。いつだったか、取引先の人のお見舞いで行ったきりの病院へ行き、検査を受けた。
婦人科系の検査なのだから当然と言えば当然だが、膣に“何か”突っ込まれるタイプの検査が行われた。“何か”が何なのかは私には分からない、唯一分かるのは“指”くらいのものだが、別に「指を入れますよ」とは言われていない。
「ついでだから子宮体癌の検査もしましょう」と言われ、それがいちばん痛かった。細い棒状の硬い器具で、抉られるような感覚がした。体感だと20分くらいそれが続いた。まぁ実際は5分程度だと思う。
「なんの“ついで”なの?」と思ったが、“なんか突っ込んだついで”だろう、多分。
病院での処置が痛いとき「なぜ私がこんな目に……」と思うとなんだかやるせくて涙が出てくる。病院側からするとお前が望んで来たくせになんで被害者ヅラなのか、と思うだろうけど。ごめん。ごめんて。膣に“何か”突っ込まれるタイプの検査は特に、屈辱的な感じがする。こんなことで泣いているのも情けないが、痛いものは痛いし、何をされているのかよく分からないので怖い。33歳にもなって先生と看護師さんに「痛かったね」「頑張ったね」「ごめんね」などと宥められているのも情けなくて泣けてくる。が、痛いものは痛い。細かに何をされるか説明されたとしても、怖いものは怖い。
結局触診ではアレがどうだかは分からないらしく、検査はMRIに持ち越された。まただ。またMRI。造影剤でしょ?まただよ。春ごろに受けたよ。もういいよ。が、診る場所が違うんだろう、たぶん、撮る場所が。全身くまなく撮っといて全お医者見られるように出来ないのかな。知らんけど。何も知らんけど。
結局あと2回は大きい病院に来ないといけないみたいだ。病院はかわいいものをくれたり、おいしいものを食べさせてくれたりしないのに、バカみたいに金がかかる。きちんと勉強した人たちに適切な検査・治療をしてもらうサービスにお金を払っていることはもちろん分かっているけど、精神的・物理的に満ちない(むしろすり減る)ので「なんの金?何に払った金?超痛いのに?」と思えて悲しい。
何かを突っ込まれたあとは血もガンガン抜かれた。貧血なのに血を抜かれているのだ、変な話だ。最後は「よく呑むやつとふたりで晩飯を喰らい私が支払ったぐらいの金」を払った。高いよ。うわぁーーーん。
何か美味しいものを食べて自分を甘やかさないと精神的にキツい、と思い味加味に行ったが定休日だった。もう嫌だ。適当に入ったイタリアンでカルボナーラを食べた。ずっと下腹部が痛い。食欲はあるのでヤケになって、にしむら珈琲でモンブランも食べた。おいしい。モンブランおいしい。
“ついで”だから、眼科にも行くことにした。定期検診をほったらかしにしているからだ。この場合の“ついで”は、会社を休んだ“ついで”、である。どうせ家に帰っても横になっているしか出来そうにないし、眼科は今月行こうと思っていたのだから、ちょうど良い“ついで”だ。
眼科では瞳孔を開く目薬をさしたので、これを書いている今も瞳孔が開いている。世界が眩しくて泣けてくる。素敵な比喩などではなく、本当に眩しいのだ。近くも遠くもボヤボヤして見えにくいので、誤字が分からない。後で直す。
眼科では「そんなに呑まない奴とふたりで軽めの晩飯を喰らい割り勘にした程度の金」を払った。出社していたら、そろそろ退社するくらいの時間になっている。眩しくて目をしかめながら、スピッツのアルバム「花鳥風月」を聴いて家に帰った。
さっき買った文庫本の続きを読みたいが、瞳孔の閉まり待ちで読めない。
あれは、そうね いつだっけ
2022年9月18日 (日) 20:10
夏になるとよく見る夢がある。部活の夢だ。
中学1年から高校を卒業するまでの6年間、他に何をしていたのか思い出せないほど熱心に部活をしていた。夏と言えば吹奏楽コンクールの季節で、長ければ(つまり勝ち進むことが出来れば)秋が終わるくらいまでコンクールをやっている。100人以上部員がいるのにステージに上がれるのは50人だから、毎年オーディションがあった。曲が決まったあたりで1回、地区大会の直前に1回、県大会の前に1回、みたいな感じでオーディションは何度もある。年功序列的なルールはなく、審査員は受験者の顔が見えないように後ろ向きに座り、全部員が演奏のみで審査される。3年間一度もコンクールに出られない人もいるし、県大会直前で2軍に落とされる人もいる。
楽器をはじめて3年くらいの間は、練習量と演奏技術が比例しているような気がする。練習すればするほど上手くなる。が、これが4年を超えるとだんだん「別の何か」の必要性が見えてくるようになる。やみくもにただ練習量を増やしても、上がれない階段みたいなものが出てくるのだ。というか人間は全員1日24時間しか持たされていないから、単純に練習量はどこかで頭打ちになる。「別の何か」はざっくり「才能」と言っていいのだろうか。いや、耳の良さや勘の良さもあると思う。それもまとめて才能と呼ぶことは出来るかもしれんが、とにかく練習時間を増やしただけでは上手くなれない時期がやってくるのだ。まぁ私の感覚的な話でしかないけど……
音楽は、時間をたくさんお供えしたのに、それではもう満足してくれない神様のようだ。ここから何を捧げるかは、人による。この先の道を思うとき、私は「音楽なんかとまともにやりあったら、人間は狂っちゃうよなぁ」と思う。
とはいえ、基本的な練習量が足りていなければもちろん上手くはならない。才能はあるのに練習が出来ない人もいるし、逆に休むのが下手で上手くなれない人もいるように思う。こういうのも「才能がない」ということになるのかもしれない。
熱心に楽器を触らなくなって、楽譜を持ち歩くことがなくなって、15年くらい経つのに、私はまだ年に数回、部活の夢を見る。たいていは思い出プレイバック的な夢で、実際に経験したことを俯瞰で見るような夢だ。誰かの泣き崩れる背中をさする夢だったり、オーディションを受けるために暗幕を閉めた音楽室に並ぶ夢だったり、ステージの下手側にスネアを持って待機する夢だったりする。
スネアを運ぶとき、下側についているジャミジャミした金属線に絶対に触れてはいけない、とムラタ先輩に教わった。小学生のころは「こだいこ」などと呼んで男子が雑に扱っていたスネアドラムは、思っていたよりずっと繊細な楽器なのだ。
もうスネアを運ぶ機会など無いだろうと思うのに、夢の中でも私はスタンドの黒いゴムの部分を二本指で挟むように持っている。腕の内側に当たるリムの冷たい感触すら、いまだに覚えているのだ。
昨日見た夢の中で、私はマルカートが出来ないトランペットパートのメンバー5人を相手にパート練習をしていた。パートリーダーはマサシなのだから、パート練習は本来マサシが仕切るべきだが、マサシもマルカートが出来ないのだ。勘弁してくれ。マサシは私よりずっとトランペットが上手だし、華のある音色が強みだが、気分のムラがそのまま音に出るタイプだし、細部が粗いせいで悪目立ちすることも多い奏者だった。
私は何度も「もう一回」「よく聞いて」「全然ちがう、出来てない」「それはスタッカート」と口うるさく言いながら5人に向かって吹いたりしゃべったりしていて、忙しなかった。うわぁなつかしい、これ3年の夏にやったな。夢ってこんなリアルに映像が出るものなのか。なつかしいな、と思いながら目が覚めた。
目が覚めると今度は、2年下の後輩が「タイとスラーが出来ないんです、練習見てもらえませんか」と言ってきた時のことを突然思い出した。当時は「楽器やって4年目で今さら何を言っているんだ」と思ったが、演奏を聴いてみると、確かに彼女はタイとスラーが出来ていなかった。というかそもそもタイとスラーを理解していなかった。たぶん誰にも教えてもらえず、特に指摘もされずに、雰囲気でやってきたんだろう。ソロパートでも担当しない限り、こういうことはわりとあるように思う。人数が多いのでタイとスラーが出来ないぐらいのことは紛れてしまうのだ。
私は食堂の外にあるベンチに彼女と横並びで座り、タイはこう、スラーはこう、楽譜がこうなっていたら舌をつくのはこことここ、というように、吹いたりしゃべったり楽譜にペンでマークを入れたりした。彼女は1日では出来るようにならなかったが、少なくとも「違う」かどうかを聞き分けることが出来るようになった。
彼女は別の日にも「チューナーが無いとチューニングが出来ないんです、どうしたらいいですか」と言ってきて、私はまた例のベンチに座り、針ではなく耳でチューニングを合わせる方法を教えた。チューナーから正しい音程を流し片方の耳で聞く、上に外れてるときはこういう聞こえ方をする、下に外れてるときはこういう聞こえ方、ピッチが正確に合っているときはこの音は聞こえなくなる、和音のときは5音ならほんの気持ち高めに、3音ならやや低めに、口だけで合わさないでトリガー管も使ったほうが良い、などと順を追って説明した。
自分は何が出来ないのかを正確に把握することや、教えてくださいと何の衒いもなく発信できることも「才能」なのかもしれなかった。振り返ると私には前者だけがあり、彼女は後者も持っていた。こうなると「才能」って言葉は広義すぎて、ほとんど何も言ってないのと一緒だな、と思う。
ピッチにうるさい人には早めに出会っておいたほうが、後々楽かもしれない。私が中学1年のとき3年生だったコンマスのイシタニ先輩はピッチの鬼で、合奏前にチューニングが合わないと、容赦なく音楽室を追い出された。よく「高いか低いか自分で分かってる?」と聞かれたし「口で合わせてるやろ、管で合わせな意味ないで」と叱られた。今思えばたった2歳しか違わないのに、自分が1年生のときの3年生ってすごい大人に見えたな、あの現象て名前付いてる?
芋づる式に、セクション練習のやり方が気に入らなくて朝練に行くのをやめたことを思い出す。カイちゃんは最後まで「おまえは副部長やねんから朝練ぐらい出てくれ、示しつかんやろ、勝手なことすんな」と言っていたが、私は私で「カイだってあんな練習なんぼやっても意味ないって思ってる癖に正す気ないやん、そういう事なかれ主義を協調性やと思ってるヌルいとこが腹立つねん」などと喧嘩腰で、最後まで譲歩しなかった。今だったら朝練に行くだろうか、と考える。特に答えは出ない。行く、とも言い切れんな……うーん。
私はいくつになるまで部活の夢を見るんだろうか。
夏の思い出ならフジロックの夢だっていいはずなのに。
そちらはまだ、一度も見たことが無い。
ゴミ袋で受け止めて
2022年9月14日 (水) 20:52
丼のフチにチャーシューがぺろーんと載せられているタイプのラーメンはどうなんだ。なんか見栄えが悪い気がする。たぶんレアチャーシュー的な仕上りになっているから熱いスープに浸けたくないんだろうなとは思うけど、でもなんか、見た目どうなん。あとどうせ熱いスープに浸けて食うよ、こっちは。ごめんな。
貝だしのラーメン屋が出来たので行ってみたら、延々ミスチルだけがかかっていて、しかもなんかちょっと壮大系っつーか、巨大エモ系のミスチル、分かりますかね、そっち系の曲だけがかかってて、アッサリしたいんかドッシリしたいんかどないやねん、という感じだった。ラーメンはアッサリしていておいしかった。私ミスチルはもっと軽くてキャッチーでなおかつ変態ぽい曲が好きやねんよな。店主とは趣味が合わない。ラーメンはおいしかったです。
スピッツのファンクラブイベントに無事当選した。ファンクラブイベントのライブはめずらしい曲を披露してくれたり、アットホームな雰囲気だったりして楽しいが、同時に「なぜか開演から終演までずっと小声でマサムネを呼びながら泣き続けている人」みたいな、自分とは好意の方向性があまりにも違う人を見たりもするので、なかなかカルチャーショックを受ける。
初めてファンクラブイベントに参加した広島では、10数名のファンの方々が「整理番号通りに整列してから入場させてほしい」とライブハウスのスタッフに熱く交渉していて、わりと不穏だった。どうやら5番刻みで呼ばれて入るのが嫌だったらしく「順番通り並ばせるから1人ずつ入場させてほしい、自分たちが指示するからスタッフに迷惑はかけない」みたいなことを言っている。なぜ急に学級委員長みたいなことを言い出すんだ。
私は入場の順番など心底どうでもいいと思ったし今も思っているが、少なくとも10数名はスタッフにかけ合うほど整理番号順通りに入ることに強いこだわりがあるらしい、ということにびっくりした。結局は「ライブハウスのスタッフに従ってください」みたいなことでその場は終わり、当初の予定通り5番刻みで呼ばれて入場した。つまり「自分は16番なのに、20番の人が自分より先に入場するのはおかしい」ということなのだろう。意識高いんか低いんかようわからんな。
スピッツのライブに行くのは2年前の城ホール以来だ。うれしいな。spotifyで「空の飛び方」を聴いている。これは「空も飛べるはず」が収録されている、5番目のアルバムだ。
「空も飛べるはず」はミリオンヒットシングルだが「君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる きっと今は自由に空も飛べるはず」はあまり草野マサムネっぽくないな、と思ってニヤニヤしてしまう。マサムネっぽくないというか、スピッツぽくない歌詞だなと思う。これがめちゃくちゃ売れたの、おもしろい。
いや、マサムネさんはめっちゃ素直になるとこういうことを思うタイプなんだろうか、奇跡だなぁ~とか思って、いま空飛べちゃうな~って思うのかな。それはそれでかわいい。もしくはメロディーが先に出来ていて、メロディーが連れてきた歌詞だったりするのかな。
どちらかというとそのあとに続く「ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも ずっとそばで笑っていてほしい」の方に、私は草野マサムネを感じる。奇跡が胸にあふれるより、ゴミがきらめくのが、スピッツっぽいなと思う。
今頃12号はハワイの上で
2022年9月12日 (月) 21:34
外が騒がしくて目が覚めた。波の音と、人が大勢しゃべる声がする。……波の音?
ベッドから起き上がると、知らない部屋で寝ていた。私のベッドより高さがあるので足を床につくまでの時間が長い。え、なにここ、どこ。外うるせぇ。
ベランダに出ると、ここから飛び込めそうな位置に海があった。うわ。海ある。ここどこ。人が大勢しゃべる声は、波打ち際で輪になって談笑する人たちと、少し沖の方に出て、アレ、アレ名前なんだっけ、アレをやっている人たちの声だったようだ。ぜんぶで30人くらいいる。あれ名前なんだっけ、あのさ、サーフボードの上で、ヨガ?みたいなのやるやつ、あるやん。あれ名前なんやったかな。
月がまぶしいほど近い。え、夜なの、今何時。私の本当の寝室には時計をかけていないが、見回すとこの部屋には時計がかかっている。2時。2時?どの2時?まさか夜中の?2時にやるものなの?あの、アレ、サーフボードの上で?朝やんなよ。知らんけど、え、夜やるものなのか?いや知らんけど。
2時はまだ全然寝る時間、と思いベッドへ戻った。私のベッドではないし、ここが誰の家かは分からないけど今はどうでもいい。2時なんだから。
次に目が覚めたとき、5時だった。波打ち際で輪になって談笑する人たちも、名前の分からないアレをやっている人たちも、もういなかった。波は穏やかで、少し風があって気持ちいい。5時ならもう起きてもいいか、と思っていると、岩場のあたりに人がいるのを見つけた。しゃがみこんで、何か探しているみたいだ。ふいに立ち上がると、彼は振り返ってこちらを見上げた。知っている人だ。ナムさんだった。
ここで本当に目が覚めてしまった私は、たった今立ち上がって振り向いた人がナムさんだったこと、彼のつるんとしたほっぺたの左側にきゅっとえくぼが見えたことを噛み締めた。ティーンみたいな夢見ちゃったな……いやそうでもないか、夢の中でもほぼ寝てたな私。コンマ5秒ぐらいしかナムちゃんを見られんかった。寝てる場合か。もったいない。でもかわいかったな。ベージュのオーバーオール着てた。私、ナムさんがオーバーオール着てるのめっちゃ好きやからな。良い夢見た。
おナム、今日誕生日だね、おめでとう。岩場で何探してたの?カニ?AirPods?
ミミンミョン
2022年9月9日 (金) 21:26
推しが何を言っているのかリアルタイムで理解したい、という思いで韓国語を勉強し始め、1年と少し経つ。どうにかハングルは読めるようになった(読めるだけ、意味は分からない)程度で、相変わらず推しが何を言っているのかは分からない。が、先日ディズニープラスで配信されている「IN THE SOOP フレンドケーション」を観たら、パク・ソジュンさんやPeakboyさんの言っていることはまぁまぁ分かったので「単に推したちが早口すぎるのではないか」という疑惑が浮上している。ま、早口でワーキャーしているところがかわいくて好きだし、全員同時に何かしゃべっていてうるせぇのも好きだから、良いんですけどね。長く続けてきたグループのアイドルって、あのゴチャゴチャわちゃわちゃした感じが良いよね、というか私がそれが好きなだけかもしれんが。とは言えパク・ソジュンさんやPeakboyさんの落ち着いた雰囲気は大人っぽくてキュンとしますね。えへへ。とか言っていたらパク・ソジュンさんとPeakboyさんは1988年生まれで私と同い年なのだ。私、たぶんこんな落ち着いてしゃべってないな……
「韓国語は文頭に濁音が来ない」と友人から借りっぱなしにしているテキストに記載があり、それとiPhoneのアプリしか教材を使っていない私は「へぇ~そうなん」程度の認識で1年近くやってきたが、最近どうもしっくりこない。推したちがしょっちゅう食べている韓国の麺料理「비빔면」が「ビビンミョン」にしか聞こえないのだ。本当に「文頭に濁音が来ない」のだとしたら「비」は「ピ」と発音して「ピビンミョン」になるんじゃないの?
ちょっと、ステーキと一緒に食べるとおいしいんだよ~と言うホビたんも、1.5倍量にしてほしいな…と言うナムちゃんも、僕は2個食べましたよ!と言っているグクも、みんな「비빔면」を読んでみてくれ。どっちなんだ。
こういうとき人間を相手にする勉強をしていないと困る。質問が出来ないからだ。
すっきりしないので、いくつかWeb記事を検索して読んでみたら、ざっくり言うと韓国語に濁音の概念はない・意識していない、みたいなことらしい。極論「どっちでもいい」みたいなことまで書いてある。え、どっちでもいいってことはないやろ、平音と濁音は全然ちゃうやん、ほら「か」と「が」は別もんやろ、と思うけど、よくよく考えたら発音しているときの口の形は「か」も「が」も全く同じである。試しに「ぴ」と「び」をやってみても、口は同じだ(読唇術の人はどうやって見分けるんだろう、文脈か?)。大体、どうやって「か」と「が」を言い分けているのかを、自分で説明できない。意識していない、というのはつまり、こういうことなのだ。
語学に限った話ではないが、理屈でやっていける領域というのは案外狭いのかもしれない。お医者の先生に「摂取カロリーを消費カロリーが上回ったら痩せるんですよね?」と聞いたときのことを思い出した。先生は「…ま、理論上はね」と答えたのだ。医者なんか理論のみで飯食ってんじゃないの!?と思ったが、どうやらコトはそう単純ではないらしい。「発酵」と「腐敗」を分ける科学的な根拠は無い、とも聞いたことがある。医学や科学ですら理論のみではやっていけないのに、人間が寄ってたかって毎日使い続けている言語を理論的にだけ習得しようとするなんて、無理な話だよなぁと思う。「そういうもんやねん」としか言いようがない領域が出て来るのは当然のことのように思う。
私は「なんで?どういう理屈?」と疑問を持ち、それを調べて理解し「ほほーんなるほどなるほど」と言うのが好きだが、それで何もかもやっていける、と思ってはいけないんだな、でももしかしたら、言語学の先生とかにお話を聞いたら、何か論理的な回答が得られるのかも、それにしてもハングルは発音記号がそのまま文字として使えるようになっていて本当によく出来ているなぁ、作った人が分かるなんてロマンがあるし、まぁひらがなもコロンとしててかわいいけどね、などと考えながら晩ごはんに「비빔면」を作った。ツナと千切りにしたきゅうりをよく混ぜて、少しごまをかけて食べる。おいしいねぇ、비빔면。
i guess
2022年9月7日 (水) 22:28
推しが来日し、数日間の滞在ののち、帰国していった。外国に住んでいる人をこんなに好きになったことがないので「推しが来日する」というのは私にとって初めてのことだ。……いや、Weezerがワールドツアーで日本に来てる、とかはこれまでもあったけど、それとはちょっと違うから。
彼はただ仁川から飛行機に乗って日本に着いて、仕事のあとに丸の内でとんかつを食べたり(とんかつチョイスなのかわいい)、中目黒の服屋さんに行ったり、代官山の蔦屋さんで買った服を広げたり、その服を早速着たり(買った服すぐ着るのかわいい)、美術館に行ったりして、自分の家に帰っていっただけ、と言えば「だけ」ではあるし、私を含めたほとんどのファンは彼に会えないし、会うどころか見ることさえ出来ないのに、それでもなんだか幸福な出来事だったな、と思う。私はまだモニタの中か印刷された紙の中でしか見たことがないけど、現実に存在しているんだ、という気持ちになるからだろうか。無事に帰国したようでよかった。日本で楽しく過ごせたなら、なお良いな。そんでまた来てほしい。推しが国内にいると生活や仕事に不思議とやる気が出るので……
「うちの店に来た」とか「○○で見た」みたいな情報がSNSに上がらなかった(私が見なかっただけかもやけど)のも、なんだかうれしい気持ちになる。誰にも気づかれていないわけがないので、きっと「ナムさんに会っちゃった!!!て言いたいけどダメ!!!」となっている自制心のある人たちばかりに目撃されたんだろう。だってもし本当に新大久保に行ったんだとしたら、どんな変装をしていようと、見つからないはずがないと思う。新大久保にナムさんおったら気づくやろ、ディズニーランドでミッキー見つけられへんやつなんかおるか?(比喩がズレている)
公式や本人がアップした写真で知るのはいいけど、第三者からの目撃情報は、ファンであってもやっぱりなんかちょっとモヤっとする。大体は「マナー良かった!感じよかった!かっこよかった!」みたいな目撃情報しかないし、実際にそうなんだろうとは思うけど、それでも「いつどこで誰と何してたか」が自分以外の意志で全世界に共有されるのなんて、あまり気持ちのいいもんじゃないだろうと思うからだ。どんなに有名人になっても、その恩恵をいくらか受けているとしても、そんなのぜんぜん関係ない、プライベートは守られるべきだと思う。
仁川空港での帰国の映像で見たナムさんは車に乗り込んだ後も取材陣のカメラに手を振ったりピースサインを送ったりしている。こういうのって慣れるものなんだろうか。まぁある程度は慣れるか……でも「まじで放っておいてくれよ」っていう日、あるだろうな。空港を出て車に乗るまでのほんの数十秒すら放っておいてもらえないなんて、どういう職業なんだ。と同時に、人が空港から出てきてほんの数十秒歩くのを何時間も待って撮影しなければならないなんて、そっちもどういう職業なんだよ。双方「見る人がいる」から成り立つ職業だということを理解するとともに、この場合の「見る人」はまさに私だ、と気づく。なんかごめん。まぁ社会って大体こんな感じで構成されてるのでしょうね。あと、職種とパーソナリティってあんまり関係ないのかもしれん。いや関係はあるし関連はするけど、あくまで一因でしかないんじゃないの。知らんけど。
……私を含む関西人の多くはこのように「知らんけど」を末尾に言い添えておけば、それまでに言及したすべてに対しての事実確認を放棄することが出来、なんの責も負わずに済むことになっているんですが、すごく便利なので国際語みたいにして使ったらいいんじゃないでしょうか。「KARAOKE」とか「UMAMI」とかと同じ感じで。知らんけど。
つーか関西弁以外の話者である皆さんは「知らんけど」を使わずしてどのように生きているんですか。「知らないけどね!」とか「まじ知らないけどさぁ~」とか言うの?使う??
catch me if you can
2022年9月6日 (火) 20:14
占いについて、私はよく知らない。いろんな種類があることは知っているが、正式な名称は知らないし、成り立ちも全然知らない。でもニシーさんに何回か占ってもらっているうちに、なんとなく分かってきたこともある。私の知る限り、占いは一問一答クイズじゃないし、何にでも効く魔法の万能薬じゃない。でもそういうところが、断定的じゃないところが、占いの好きなところだなと思う。
占いに行った話をすると「信じてない」「当たるの?」と言われることが多いが、どちらもあまり本質的ではない気がする。占いは一種の学問のようなものだと私は感じるので、信じるとか信じないとかいう文脈で話すのはちょっと、ズレているように思う。
占いが当たるかどうか、という質問もあまり的を得ていないように思う。自分の性格・性質や基本的な考え方について「当たっている」と思う場合、それは自分自身で認識できていること・自覚していることの肯定になるし、逆に「当たっていない」と思う場合、それは自分自身で認識できていない・無自覚の範疇であるだけの話だ。もしくは認識したくない・気づきたくないと思っていることなのかもしれない。
私はどちらかと言うと「当たっていない」と思うことを言われた時の方が、占いはおもしろいと思う。だって「当たってる」ことだけ言われても、それはもう知ってることなのだし、何なら知ってて直したいと思っていたり、さらには自分の好きじゃない部分だったりすることもあるからだ。
とは言え、自分の嫌だなと思うところ、好きじゃないなと思う部分を、星の巡りや配置のせいにできるなら、それはそれでいいじゃないか、と思う気持ちもある。例えば私は自分のお節介で独りよがりな、恩着せがましいところが嫌いだが、そういう性質はしっかり占い上に出ているらしいのだ。もちろん個性でもあると思うが、だからといってそういう性質を100%好きにはなれない。個性だって多面的だ。良い面しかない個性など無い。
鬱陶しく思われたくないから気をつけよう、と自分なりに意識しているが、それでも反射的に動くときは独りよがりにお節介を焼いてしまうし、感情のままに発言するときはウッカリ恩着せがましくなってしまうし、後からそれに自分で気づいて「あぁまたやってしまった、頼まれもしないのに、うえぇぇ最悪だ、あぁああ」と身悶えたりする。
そういうとき「なんで私はこうなんだ、いつまで経っても、もうやだしんどい、一生誰にも好かれない」とベッドにうずくまって1mmも動けなくなってしまうことがあった。これを「でもそういう星のもとに生まれただけやからな!!!!」で片付けることを手段のひとつとして所持していると、もう少し息がしやすくなる。「私がお節介で独りよがりで恩着せがましいのは、別に私だけのせいじゃない」と思うと「次も気をつけよう、今回はあかんかったけど、でも次こそはいい感じに出来るかもしれん、頑張ろう」と思えるのだ。もちろんそうできない時もあるし、そうしちゃいけない時だってあるけど、でも手段のひとつとして、武器のひとつとして、ポケットに入れておくだけでも、随分気は楽だ。
ま、次は次で「あんなに気を付けようと思ったのにまたやってしまった、なんて学習能力がないんだバカすぎる、ここまで無能なの?もうやだしんどい、一生誰にも好かれない」とベッドにうずくまる日がやってこないこともないけどな。でも人生てこんなもんっしょ、わはは。
占いはひとつのツールであるので、すべてを解決したり、何かを決定したりするようなものではない。私の人生を頑張るのはいつだって私だし、決めるのもいつだって私だ。それでも占いのせいに出来るところは占いのせいにして、いちいち自分を責めないでいいし、これ以上自分を嫌いにならないでいい。占い上良い波が来ているならそれを存分に利用すればいいしさ。
占いは人間ではないので、利用されても気を悪くしたり鬱陶しがったりしないところが良いなぁと思う。やぎ座と土星のせいにして自分の至らなさを一旦保留にしていても、別に土星が私ん家に衝突したりせんもんなぁ。やぎ座がブチギレて長文LINE送ってきたりせんし。
ふとスピッツの「うめぼし」という曲の歌詞に「星占いですべて片付けたい」という一節があることを思い出した。はーーーマジ星占いですべて片付けたいよね、分かるよ、でも「すべて片付けたい」って言ってるってことは、この人は片付かないことを知っている、という意味だろう。それでもなお、の意。
この曲、歌詞はずっと脈絡ないけどそこが良いよね、脳内!って感じして好きだな。脳内ってわりといつでも雑然としていて脈絡はない気がする。
ニシーさんは今回「占いで言えることはここまでです」というキラーワード(キラーワード?)を使っていておもしろかった。占いはただツールであるので、ニシーさんに出来ることはそれを使って私が何者かを紐解こうとすることだけだ。「だけ」と言うと語弊があるが、良い意味で言っているので許してほしい。
一方、受け手である私に出来ることは私自身が何者かを占いを通して知ろうとすることだけで、その後の、諦めずに思考し続けること・固執しないで変化を受け入れること・具体的にどうするかを自分で決めること、に関してはもう占いの範疇ではない。ニシーさんは占いをただツールとしてごく真っ当に、かつ丁寧に真摯に扱い、彼自身や占いそのものを権威的に見せたり、支配的に振る舞ったりすることは絶対にない。そういうところが好きだな、と思って、今もずっと好きだ。
ニシーさんと話していると、落語家が使う扇子のことが頭に浮かぶ。落語家は高座(舞台)に上がると自分の前に閉じた扇子を横位置で置く。これを「結界」と言い、扇子はお客と演者とを分ける一線なのだそうだ。ただ扇子が横向きに置いてあるだけなので、空間的には何の区切りにもなっていないし、物理的に越えようと思えばいくらでも越えられる。でもあの扇子の向こうにいる人は芸をする人で、扇子のこちら側にいる私は芸を見る人だと、線引きがある。扇子の向こうとこちらは別の立場なのだ。礼儀でもあるし、けじめでもある、何より尊重があるだろう。
ニシーさんと話していると、この人は無遠慮にその結界を越えては来ない、という信頼感と安心感がある。壁がある感じはないし、親しみやすくフレンドリーに話すのに。
不思議なことだな、と思いながら私は脳内でエア扇子を生成し、それをお互いの真ん中に置いてみる。私の脳内でエア扇子を合成されていることなど知るよしもないニシーさんは「相手がAを求めているときにAよりもーっとすごいゴールデンAを出そうとしてしまうタナノゾの性格」について話してくれた。うーーーん、めっちゃ分かる自覚ある、ゴールデンAのほうがええやん!だってゴールデンやで!?ドヤ!!!をやってしまうわ。超やってしまうね。
ほんとうは去年の年末に占いをしてもらおうと思っていたのに、ずいぶん過ぎてしまった。でもニシーさん年末年始めちゃくちゃ忙しそうやったし……ま、占いはいつやっても良いですからね!
ニシーさん毎度ありがとうございます、またお願いします。今回カラオケでやってもらったし、強火ジミンペンも同席していたのにBTSの1曲すら歌わなかったので、いつかまたカラオケ行きましょうね。ニシーさんカラオケ行ったら何歌うの?私は「翳りゆく部屋」と「大宮サンセット」を歌います、でもジンくんのソロ曲を歌えるようになりたいから練習しとくね。
では最後にインフォメーションです。みなさんどうぞ #占う男 をご贔屓に。
#占う男 の活動がまとめてあるサイト
#占う男 ことニシーさんのTwitter
占いの料金とか詳細(明朗会計です)
甘酒いっこしかなかった
2022年9月2日 (金) 21:50
なんとなく入りにくい店、というものがある。どんなに事前にネットで調べ、インスタで商品を見ていても、間口が狭すぎたり、中の様子が一切見えなかったり、薄暗かったり、どう見ても人がいなかったりする店。値段が全くわからない寿司屋も入りにくいし、ギャラリーみたいな骨董品屋も入りにくい。
フランスに旅行したとき、どんな店でも、どんな人でも、入るとき「ボンジュール」と挨拶をする文化があると知り、好きだな、と思った。コインランドリーに入ってくる寝ぐせ頭のお兄さんも、ハイブランドのジュエリーショップみたいな高級ショコラティエの店員さんも、みな同じように挨拶をするのだ。「こんにちは」も「いらっしゃい」も「邪魔するぜ」も「ちょっと見せてね」も「ボンジュール」に内包しているんだと思う。便利だ。
フランス旅行以来、なんとなく入りにくいな~と思う店に入るとき、日本でも「こんにちは~」と言うようにしている。店なのか倉庫なのか分からないような店に入るとき、看板は出ているのに重い木の扉がある店に入るとき、とにかく先に入り口で挨拶しておく。無視されることも時々あるけど、大抵は返事があるし、何か作業をしていても顔を上げてくれたりする。特にほしいものがなくて何も買わずに店を出る場合も、先に挨拶している分、少し気が楽だ。
先日、母がテレビか何かで知ったという味噌屋さんへ行ったら、店なのか蔵なのか分からない店構えをしていて、どうにも入りにくかった。人の気配もない。とは言え味噌のいいにおいがしているし、地図で見る限り場所は間違ってはいないようだ。奥に向かって「こんにちは~!」と挨拶してみると、背中の方から返事があった。振り返ると、通りを挟んだ反対側のおうちが、味噌屋さんの家だったらしい。想像より遥かに若い味噌屋さんは「ごめんなさいね分かりにくくて、改装で工事中なんです」と言いながら、私たちを6つの樽が並んだ味噌蔵に案内し、仕込みが終わったばかりでこれから発酵するという樽の中も見せてくれた。
味噌を仕込むのに使う樽は、元は日本酒を作っていた樽なのだそうだ。酒は水分量が多いので、木製の樽はそう長くは使えない。酒蔵で使えなくなった樽はつぎに醤油屋さんに渡り、さらに古くなったものを最後に味噌屋さんが使うらしい。トータル150年ぐらい。最近では木樽で仕込む酒蔵がかなり減っており、その流れで味噌屋さんに回ってくる木樽も減っているらしい。とは言え、酒と醤油を作った後の木樽で仕込む味噌と、新品の木樽で仕込む味噌とでは、全く味が別ものだそうだ。そらそうでしょうね、こればっかりは。困りましたね。
樽は上部と下部を数か所、竹の箍(たが)で締めてあるのだが、胴のあたりは締めておらず、側板が広めに見えている。側板は木なので水分を含むと徐々に膨張し、その胴のあたりが割れ、味噌が漏れ出てくるらしいのだ。じゃあ胴のあたりも箍を締めとけばいいんじゃないの、と思いきや、なんとそこは「ここは締めずに空けておいたほうが格好いい」という理由で空けているらしいのだ。そ、そんな理由??と笑ったが、すごく日本人らしい気もする。この粋か野暮かでものごとを決定する感じ、落語を聞いているとよく出て来る。7対3の割合いで側板が見えるのがかっこいいらしい。うーん、なるほど、でも分かる気がする。
樽おもしろいな、と思って少し調べたら、側板の横の面(となりの側板との接地面)のことを「正直(しょうじき)」と呼ぶらしい。この正直面を角度を付けて削ることで、つないだ時に円形にすることが出来るのだそうだ。また、正直面は組んだ後は見えなくなるため、落書きをすることが多いらしい。100年前の樽や桶を解体すると、当時の時事ネタやお米の価格(物価)、さらには施主の悪口などが書かれていることもあるらしい。えーおもしろいね。
買ってきた味噌はすごくおいしかった、と書きたいが、母が1kg全部持って帰ったので、私はまだ食べていない。
ベッカライ
2022年8月30日 (火) 21:34
8月はいろんなことがありすぎて、もはや日記みたいなものすら書けない、という状態になっている。何があったか、トピックだけでも記録してみようか。
・ようやくベッドを買い替えた(快適)
・布団を捨てた(大型ごみ300円)
・改装後はじめて市立博物館に行った
・10か月ぶりのタリョラが放送された(号泣)
・久しぶりに新幹線に乗った
・じゃがいも味のお湯を作成してしまった
・弊推しに「息子にしたい感じのかわいさ」という褒めをいただいてうれしかった
・おいしいパン屋さんを見つけた(ライ麦のパン好き)
・友だちの友だちは友だち、みたいな概念を身をもって実感した
・劇団四季「アナと雪の女王」を観劇した
・カーテンコールの間ずっと拍手を送る6歳男子を見てちょっと泣いた
・答え合わせのような占いを受けた #占う男
・崎陽軒のシウマイ弁当を食べた(久しぶりに食べるとすごくおいしい)
・立川談春さんの独演会に行った
・味噌蔵を見せてもらった
・アンティークショップで見つけた伊万里焼の蕎麦猪口を買った(高かったが気に入った)
・2年半ぶりに友人がノルウェーから帰国してうれしかった
・10数年ぶりに会う友人が家に遊びに来てくれてうれしかった
・ズッキーニのナムルとポッサムをマスターした
・ポッサムは400gに塩小さじ1.5、90度で60分がベスト
・手巻きキンパに味を占めた、楽しいしおいしい
私は20代後半ぐらいから、ようやく、大勢のよく知らない人に会っても平気な人間になってきた気がする。よく知らない人にですら「誤解されたくない」と苦しかった20年間は、終わったのだと思う。長かったなぁ。自然に終わったのか、自発的に終わらせたのかは分からんが。今は「誤解されようが、好かれようが嫌われようが、わりとどうでもいい」という感情が強い。どうでもいいし、どっちでもいいし、どうにもできない。他人の感情など、私にコントロールできるわけがないのだから、そんなことを気に病んだってどうしようもないのだ。大体、自分の感情すらコントロールなんかできないくせに、傲慢だよ。が、若さはいつも傲慢を携えているようにも思う。ので許す。
引き続き「ちゃんと話をするときはサシでやりましょうね」と全人類に対して思っているが、ただみんなで一緒に美味しいものを食べて、にぎやかに過ごす、ということが出来るようになったし、楽しめるようになった。よかったな。長く生きると、出来ることが増えるの、とっても良いですね。
「ちゃんと話をするときはサシでやりましょうね」の感じ、書きながらすごい私っぽいな、と思ったけど、ニシーさんが「こういう星の配置の人は、やっぱりチャラい感じでセックス出来ないですよ、“まぁやってもいいけど、やるならガチでやろうな?”みたいな感じになりがち」と言っていたのを思い出した。うーん、確かに「やらない」か「やるならガチ」しか手札を持ってないかもしれない。「試しにやってみる」とか「気が向いたからやる」とかあんまり無いな、持ってない。でもそういう二極な感じがバランス悪くてあまり好きじゃないから抗ってもいる。
いや、べつにセックスに限った話じゃなく。
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