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風待ち
2022年3月16日 (水) 22:00
姉(実姉)がBTSのソウルコン3日目のライブ配信を自宅で見たと連絡をくれたので、感想を言い合おうと思って電話をしたら、3時間くらい私が一方的にしゃべり続けてしまい、最終的に「もうやめさしてもらうわ」と正統派漫才師のようなことを言われて笑ってしまった。ごめんて。わはは。
姉とは一緒にいる時間が単純に長かったから、必然的に「共通言語」みたいなものが多いと思う。口からそのまましゃべっても許される感じがある。感じがあるだけで別に許されてはいないので「それはちゃうやろ」などとバッサリ返されることもある。
姉は私をあまり妹として扱わないし、歳もひとつしか違わないので甘やかしたりもしない。面倒見がよく情に厚くて優しい人だが、基本的には誰に対しても「自分でできることは自分でやんなさいよ」という考え方をしていて、あまり手も口も出さない。
私は私で、姉を「同じ親から生まれてほぼ同じ環境で育ったほぼ同い年の人間」として見ているフシがあり、そういう意味では他に似た人が絶対にいないので、超貴重だと感じている。私は何か考えごとがあると「姉はどう思うかな」と思うし、選択の場に直面すると「姉はどうするかな」と思ったりもする。それに倣おうとは思っていない、ただ、同じ親から生まれほぼ同じ環境で育った唯一の人がどう考え、何を選択するかはすごく興味深いことだと思う。しかもそれを本人に尋ね、答えを得ることができるなんて、私はとても幸運だと思う。こういう言い方が合っているか分からないし誤解を生みそうではあるけど、私は姉のことを「サンプル」だと思っている。同様に彼女も私を「サンプル」だと思っているはずだ、「庇護すべき妹」ではなく。
去年の夏ごろ、久しぶりに会った姉がBTSに全くハマっていないことに、私はバチギレていた。
だってそもそも音楽のジャンルとして「歌って踊る人たち」が好きなのは私じゃなくて姉のほうだし、当時のBTSは「Butter」がリリースされてFESTAの時期(デビューの周年パーティーみたいなやつ)で、日本の音楽番組にもたくさん出演してくれた後だったし、だからどこかで適切に出会いさえすればとっくにハマってるだろうと思っていたからだ。しかもBTSは「実写版少年ジャンプ」みたいじゃないか。姉が好きじゃないわけない。ま、別にバチギレんでもええねんけどな。
姉が「職場の子は好きらしいで、ロッカーにほら、赤いハートの顔のキャラクターおるやん、あれのステッカー貼ってたわ、あれBTSのなんかなんやろ?Butterも曲は知ってるで、一応な」などとのんきに言うので私はますますバチギレ、「なんで好きちゃうねんおかしいやろ、絶対おかしいなにやってんねん、あかん、とりあえず履修開始しよ、観れば分かる」「お姉ちゃん少年ジャンプ大好きやん、大好きやろ?BTSは少年ジャンプやで、友情・努力・勝利やで、好きじゃないわけないやん」「音楽もすごい良いで、私が楽曲が良いと思ってないアイドルにハマるわけないやん知ってるやろ」と早口で捲し立て、夜通しMVやタリョラ(BTSのバラエティー番組)を見せた。
「アイドル」というものの構造の素晴らしさは、好きになる過程の入り口がめちゃくちゃ多いことだと思う。楽曲やダンス、顔・容姿はもちろんのことだが、例えばキムナムジュンの国連スピーチをニュース番組で見てARMYになる人がいても何ら不思議ではない。姉はタリョラバンタンのエピソード41で伝言ゲームに取り組むBTSを見て大いに笑い、そこから無事に沼入りした。
次に会ったときは既に「タリョラ全部観終わった(※155話まで出ている)」と言い、配信ライブも観て、有料の映像コンテンツもすべて見終えているらしかったので、私はひと仕事終えたような気持ちになった。ふぅ。良い沼なので、可能性がある人は全員落としていきたい。良い沼なので。
姉とは結局21時くらいまで「18~24歳くらいまでの”あの感じ”が心底嫌いやった、特に男の子の」という話をして笑った。「今も嫌いやん」で納得した。さらに「早割いちおう申し込んどくか」「当たってから考えよ」「外したことないやん」「いや、一昨年初めて外した」などの会話を経て風呂に入り、皿を洗って寝た。
bandwagon
2022年3月15日 (火) 22:00
PERMISSION TO DANCEをタイトルに冠したライブを、4日間で3本観た。2本は自宅で、1本は映画館で観た。
演目としては同じものを10月にオンラインコンサートで観ているし、ロサンゼルス公演の配信も観たし、どれも良かったし、だからまぁ同じと言えば同じだから、そんな毎回親の仇みたいに全部を観んでもええかな、お金もかかるしさ、と思う気持ちがあるが、実際のところ「何一つ同じではない」ことをよく知っているから、この際お金のことは見て見ぬふりをして、観られるもんは一通り全部観とこか、ということにした。それに何より、2年半ぶりに母国である韓国で、有観客ライブをするBTSがどんな顔をするのか、見ておきたかった。
しかし、お金のことを見て見ぬふりをする日が増えていますね、みんなもそうですか?
有観客とは言え、感染対策として、観客側が声を出すことは禁止されている。席に座り、マスクをして、拍手で応援してね、というルールなのだ。ま、最近のライブは規模の大小問わず日本でもこんな感じではあるが、2年半ぶりの再会がこれじゃ、なかなかキツかっただろうな、えらいね、韓国のアミたち、えらかった。でもあなたたちがどんな気持ちで、その、何ら強制力のないルールを守ったかが、手に取るように分かる。気高いね。すきだよ。あとユンギがそのことを分かってくれていて、なおかつちゃんと言葉にしてくれたの、うれしかったね。
ユンギって別に腰が低いわけでもないし堂々としてるのに「俺が先に話を聞くよ」って顔してて、かっこいいなと思う。我の強さがないわけでもないし、言いたいことなんにもないってわけでもない、むしろメッセージ性が服着て歩いてるみたいなとこあるし、その割に不必要に謙虚ってことでもないし、意志が弱そうな顔もしていない、でも「ぜったいこの人は話聞いてくれる」と思わされるの、なんなんだろうな。不思議な人だ。
初日、やや様子をうかがうような、間合いを詰め合うような空気感が双方にあると感じた。真剣ではあるけどでも緊迫してはいない、ただお互いに、歩み寄ろうとしている。2年半ぶりに会えてたまらなくうれしいけど、でも今はまだ、駆け寄ってハグしちゃだめなの、手も繋げないし、あぁどうやってこの気持ちを表現すればいいの、というような。照れもちょっとあるし、みたいな。いやぁ、なるほどな、お客が居るとそうなるんだな、あなたたちは本当に、愛し愛されているんだな、と思った。
そういえばすっごい仲良い友だちと超久しぶりに会うと最初の15分くらいはこの感じになるな……なったことあるでしょ?私はある。
こういうとき、本当に頼りになるなぁと思うのはジョングクのことだ。いつどんな状況でも、何がどのように変化していても、その真っ只中に居ても、ジョングクだけはいつも変わらないように見える。ひたむきで、素直で、ただ歌って踊るのが好きなだけだよ、という顔をしている。
でも、それゆえに、この子にも当たり前に感情の起伏があり、眠れないほど悩む夜があり、不安や後悔や、戸惑いだってあるのだということを、私は忘れがちだな、と思う。この日私は「BTSが全員部下だったら私、うっかりジョングクさんを褒めるの、忘れてしまいそうだな」と思って、謎に反省した。だって、出来が良すぎるのだ。そつがないし、努力を自分からアピールしないし、というか「要るからやってるだけだよ」としか思っていなさそうな気すらする。
もしジョングクさんが私の部下だったら、最低でも月1回はグクを焼き肉屋さんに連れてってせっせと神戸牛特上カルビを焼き、大盛の白ごはんに載せてやりながら、ベッタベタのみっちみちに褒める日が要る……えらい、かっこいい、本当によくやってる、頼りにしてる、信頼してる、いつもありがとう、また上手になったね、今日は好きなもの全部食べて、グクだけだよ、と言う日が要る。
WINGSあたりのツアーライブの、どう見ても序盤でスタミナが切れている彼の、もどかしく、悔しそうな顔を思い出す。そうだよな、手を抜くのとペース配分を考えるのは全く別のことだと、頭ではわかるけど、頭と心は違うもんな。思うようにならなくて、苦しかったろうな。今となっては6人の兄をまとめて両腕に担いで走れそうなジョングクが、ぜんぜん奇跡なんかじゃないことを思い知る。えらいな。がんばったな。よくここまで来たな。すごいね、君はほんとうにすごい。
2日目、既にあの間合いを詰め合うような空気はなかった。観客がそこにいて、拍手をしてくれていること、仲間だから、それだけでコミュニケーションが取れること、そのことを、もう知っています、という顔をしていた。迷いなく、よっしゃここで遊ぶぞ!という顔をしていた。いやーすごいね、初日やって、昨日なか1日空いてそんで今日、もうそれ出来るの?もうわからん、なんでそんなことが出来るの。すげえ。意味分からん、すげえ。
ステージやパフォーマンスに限った話ではないけど「もっとこうしたい」「いつかああなりたい」「これでは全然足りない」というパワーは、何かを推進するときにすごく重要なことだと思う。でも「今ここにあるものでやる」のも、実は同じだけ重要なことだよな、と思った。
だって比較すれば、相対的に見れば、もっと良い日が、もっと良い場が、あるだろう。過去に何度もあっただろうし、天候にしたって、環境にしたって、もっと良い日は他にあるはずだ。でも今、とにかく今日来られる人は全員来たし、大声で歌うことは叶わないけど、でもここで一緒に居られる、そのことを、みんなちゃんと見ていた。よそ見しないでちゃんと見て、それを両手で掴んで、離さないようなライブだった。しかもそのことが、悲しくなかった。今ここにあるものを見ること・握りしめることは、失くしたものを嘆くことと、同義ではないのだと知った。
3日目、この形態のライブが、一旦ここで完成したんじゃないか、と思った。丸2年続いたこの状況がこれから先いつまで続くのか分からないし「この形態のライブ」自体、継続されるのか、もっと違う展開を見せるのかは分からないけど、でもだからこそ、一旦完結した、と感じた。と、同時に、今は常にどこかへ向かう道の、途中なんだな、と思った。過渡期なんだ、ずっと、常に。
エンディング中「昨日眠れなかったんだよ」とあくびをしてしまい、みんなにドヤされてたナムちゃん(かわいかった、オイコラ金髪!立ってろ!て言われてた)が深夜に投稿したコメントを翌朝読み、合点がいった。私たちも過渡期だし、私もあなたも過渡期だったのだ。ただそれが重なり合う日があって、その日が今日だったりしたのだな、と思った。ありがとうリーダー、たっぷり寝てほしい。
ジンくんはこの日、踊りながらよく笑っていた。そして時折、噛み締めるような顔で遠く客席を見つめ、あのギュッと閉じるまばたきをしていた。何を噛み締めたのか、私なんかが知る由もないが、「実感」とか「確信」とか、そういう類のものだったら良いな、と思った。そしてそれが「糧」になるんだったら良いのにな、と思った。
3日分ぜんぶが円盤になったりはしないんだろうか。なったとして何回見返すか分からんけど、でもなんか箱に入れて大事にしまっておきたいような3日間だった。ありがとうございました。ディレイも楽しみです。
親密さ
2022年3月8日 (火) 22:53
映画を観ていたら、登場人物が「尊敬されたいとは言ってない、ただ尊重してほしかった、でもそれを相手に言うことは尊重からいちばん遠いことだ、あの人は世界が情報だと思ってる、私のことも、でも私は情報じゃない」というようなことを言ったので、思わず目を閉じて唸ってしまった。
その台詞の前半部分は、私がこの1年の間ずっと立ち止まっていた感情と寸分違わず同じもので、その台詞の後半部分は、私がなぜ立ち止まっていたかの答えだったからだ。
そうだ、私は情報じゃない。処理すべき情報などではないのだ。あぁ、そのことに、怒っていたんだった。それを理解してもらえなかったことに、こんなに長い間、悲しんでいたんだった。
4時間半ほどの長い映画だったせいもあるけど、すごく集中して観たので疲れた。が、映画を観ているとたまにこういうことがあるな、と思った。それについて考えている人は私だけじゃなくて、過去にもいるし、きっと未来にもいるということ。既に知っているはずのその事実に、何度も出会う。映画を観ていると、こういうことがある。
そしてそれは「正しい答え」などではなく、ただその人が思考の末に、目印みたいにして置いた、石のようなものだ。その石を、私が今日、たまたま見つけた。たまたまこの映画を観たから、その石を見つけることができた。
私はうれしくて、この石をポケットに入れ、宝物のように持ち帰る。他人には「ただの石だよ」と言われるが、それは構わない。私は「そう、ただの石なのよ」と答えてもいい、今これが宝石に見えるのは私だけだからだ。いつか私にもこの石が、ただの石に見える日が来るかもしれない。でもその日が来るまで、これは宝石なのだ。
SF映画みたいだ
2022年3月7日 (月) 22:41
私は「帰宅する」という行為が嫌いだと思う。だから家から1時間くらい移動すると、帰りたくなくなってしまう。もちろん自分の家は好きだし、長く電車に乗る時間もわりと好きだ、でも「帰るだけなんだよな……」と思うとなぜかすべてが億劫で、心底面倒だ、と感じる。
いや「帰るだけ」つったって、それが家なのだが……私は何を言っているんでしょうね。
そういうわけで(どういうわけだ)、1時間半も移動したら、もう帰らない。適当な宿を取り、そこで眠る。3,000円くらい出せば湯船につかって体をきれいにし、清潔なシーツのお布団で寝られるの、すごいことだ。
といっても帰るのを次の日に持ち越しているだけだから、特になんの解決にもなっていないけど、でも夜遅い時間に電車に乗るよりはお昼ごろか、夕方に電車に乗る方が気が楽なんだよな。理由はわかりません。検証もしない、細部を無視していく。
こういうとき、たいていはカプセルホテルに泊まる。ガラガラに空いているカプセルホテルはしんとして、空調設備のまわる音だけが聞こえる。私に与えられた2畳くらいの空間で、眠くなるまでラジオを聴く。
SF映画みたいだ。ここは私に与えられた唯一のプライベートなスペースで、この建物は宇宙船なんだ。地球にはもう二度と帰れないし、これから行く先は知らされていない。満員になるはずだったこの宇宙船に乗っているのは、私と、さっきシャワー室ですれ違ったピンクの髪の女の子だけだ。操縦とかは、どうなっているんだろう。酸素とかは、どうなっているんだろう。
不安だから、私は地球から持ってきた缶ビールを飲んで眠る。明日の分の缶ビールはないし、ここではきっと手に入らないだろう、でも仕方ない。だってもう地球には住めないんだから。
さみしい気持ちを紛らわすため、うつ伏せで枕に顔をくっつけて好きなバンドの曲を歌う。窓が無いのに風みたいな音がする。窓があれば、星が見えたんだろうか。SF映画みたいだ。
朝起きて身支度を整え、チェックアウトして通りへ出ると、SF映画は終わってしまう。人がたくさん歩いていて、車の音が大きくて、びっくりする。まぶしい。今日天気いいんだな。
私、SF映画結構たくさん観てるはずなのに、ディティールを思考する能力が極端に低いな、わはは。朝ごはん食べよう。ドーナツがいい。
テケレッツのパー
2022年3月3日 (木) 21:57
2年ぶりに、立川談春の独演会へ行った。立川談春は私が一番好きな落語家で、談春の何が好きかというと、おじさんがひとり座布団に座ってただしゃべっているだけなのに、めちゃくちゃグルーヴィーなところだ。
この日の根多は「死神」と「らくだ」、どちらも死にまつわる古典落語の演目である。
根多に入る前、彼は死について、そして今この2つの根多をかけることについて、こう言った。「人間の死亡率って100%でしょ?生まれたから、全員死ぬの、これは決まってるの。なのにさ、今って、死を遠ざけるでしょ?あれが、どうもね、気に食わねえんですよ」と。
古典落語というのは、だいたい江戸時代から、明治、大正くらいまでに作られた落語の演目のことを指す。江戸時代はざっと400年くらい前のことなのだ。400年前、というと、そう遠い昔のことではないような気がしてくる。
このころ、死はもっと身近なものだっただろうと想像する。江戸時代の平均寿命を調べると31.7歳だと出てくるから、これはつまり、生まれて、無事に大きくなることが、とても困難だった、お産が本当に大変なことだった(今も本当に大変なことだと思うが)、ということなんだと思う。死因など分からず、調べようもないまま、人は死んでいったのだろう。
400年前に比べると死が少し遠くなった現代において、死は恐ろしく、日常から乖離した、忌み嫌うべきものである、という価値観が、確かに存在するかもしれない。そのわりに「死にたい」は発言としてカジュアルに扱われている気もする。
とはいえ私は死が、生の真裏にあるものだとは思っていない。相反するもの、生から一番遠いところにあるものだと、どうしても思えない。死は遠くなんかない、歳が若かろうが深刻な持病がなかろうが国が平和だろうが、死はいつだってすぐ傍にいて、なにか妙に、甘美な顔をしているときがある。と思う。
談春の「死神」を聴きながら、私はドラマ「アンナチュラル」で野木亜紀子さんが書いた台詞を思い出していた。交通事故で亡くなった妻の遺骨を引き取ることができないでいるヤシキさんが「バチがあたったんだ、俺がロクな亭主じゃなかったから、神様が取り上げたんだよ」と、自分を責めるシーンだ。
松重豊演じる神倉さんは「バチなんかじゃない、人が死ぬのに良い人も悪い人もない。たまたま命を落とすんです。そして私たちは、たまたま生きている。たまたま生きている私たちは、死を忌まわしいものにしてはいけないんです」と返す。たまたま生きている。そうだ、私がいま生きているのはたまたまだ。私が良い人だからでも、前世で徳を積んだからでも、なんでもない、ただ「たまたま生きている」のだ。
ドラマ「アンナチュラル」は法医解剖医の物語だったから、談春の言う死の話とは、また別のものであると理解しているが、それでも、人がどのように死を捉え、扱っているのかが垣間見えるような気がした。
談春の「死神」は、主人公が洞窟を自力で出て、噺は死神と出会った冒頭の橋のシーンに戻る、というサゲだった。おお…ループしている…と思い、読後感が良かった。
私がループするものに惹かれるのはどうしてだろう、もしかして、ロックンロールが好きだからですか?
一方の「らくだ」、これは演目のタイトルであるとともに人のあだ名で、らくだはこの噺の登場人物ではあるが、本人はひと言も話さない。死んでいるからだ。らくだは河豚にあたって自宅で死に、それを見つけた彼の兄貴分と、通りがかった屑屋の男とをメインに噺が進む。主要キャストが既に死んでて出てこない根多って、他にあるんだろうか。落語以外だと「ゴドーを待ちわびて」、「リリィ・シュシュのすべて」、映画「桐島、部活やめるってよ」が同じ構造(タイトルになっている人物が最後まで出てこない)だと思っているけど、他にもあったら知りたい。
あ、ねぇ「マシマロ」も該当する?奥田民生の。でも一応歌詞には出てくるからな……
談春の「らくだ」は、登場人物のコントラストとその関係性や感情の移り変わりがあまりに鮮やかでそれが美しく、全くもって不謹慎な噺なのにたくさん笑った。すべてのものごとにはあらゆる側面があるが、死もまた例外ではなく、あらゆる側面があるのだと思った。
談春は今年の暮れに、また「芝浜」をやりに来てくれるらしい。
5年ぶりかな。うれしい。楽しみ。
と、ここまで書いて下書きに置いていたら、ここ数日間でいろんなことがあった。「死」はまたその手触りを変え、想像で扱う部分と実情を知ることで扱う部分とがそもそも別なんだろうな、などと思った。真正面から向き合うととても正気ではいられないし、自分で「真正面から向き合っている」と思うのも怖い。
「普通にしなきゃ、いつもどおりにしなきゃ」と一歩ずつ踏みしめているのに「普通にしなきゃ、と思ってる時点で全然いつもどおりじゃないよ」という穴が現れる。
こういう時は寒くしているのと、おなかが空いているのが特に良くない、あたたかいものを食べ、好きな人たちのことだけ考え、やわらかい布団に首まで埋まって寝る。どうかみんなもそうしてください。
インポータントビジネス
2022年2月22日 (火) 22:22
ブログの下書きリストに、呪詛のような記事が溜まっている。今やっている仕事のせいだ。呪詛は呪詛でしかないのでこれは公開できない。おもしろい呪詛なら公開してもいいんですけど。おもしろい呪詛ってなんだ。
今日も珍妙な色のグミを食べている。グミはめちゃくちゃお腹に溜まる気がする。
グミの食べ過ぎで(いや他にも思い当たるフシはある)、体重が増えている。運動量は減っていないから、単純に食べ過ぎです。最近食欲すごくて…なんでしょうね…
さらに推しの体重が61kgだと知って絶望している。ほっせぇな~!鎖骨浮いてんな~!とは思っていたけど61キロて…思わずBMIを計算してしまった。私のジンくんへの想いは「守りたい」が97%くらいを占めているので、休暇明けでそんなに痩せているとなると、やや心配である。とはいえ推しの食生活など私は一切関われるものではないしなぁ。あ、食生活に限った話じゃなかった。
BTSが海外旅行に行く映像コンテンツを寝る前に少しずつ観ている。ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの3ヵ国を10日間でまわる、というもので、これは2016年に撮影したものらしいから、当時長男のジンくんは24歳、末っ子グクちゃんは19歳、ということになる。若い、若いっつーか、まるで子どもだ。もちろんすごくかわいいけど。
BTSはみんなよくしゃべるし、仲良しだし、コロコロとよく笑い、7人がごちゃまぜでワチャワチャとちょっかいをかけ合うさまが愛おしいグループだが、10代後半から20代前半の、あの過敏さ、不安定さが掛け算になると、ちょっと映像コンテンツとしてギリギリすぎるんじゃないかと思う。常にどこかで誰かが何か(スーツケース、鞄、パスポートなど)を失くし、それを処理している間にまた何か起きる。不穏な空気を隠せるほど器用じゃないし、全員落ち着きがなく、取り繕うのも下手で、ほっこり旅番組とは言い難い、謎の緊迫感がある。あと企画もわりと粗い。
空港からテキトーなバスに乗り、当然目的地に辿り着かず、スタッフの顔色を伺う様子を隠せないまま、それでも自由に振る舞うテヒョンを見ていると、あまりにも身に覚えがありすぎて、いたたまれないような気持ちになった。わ、若さよ…たまらんな…
私はこれが2016年のことだと分かっていて、なおかつ今の彼らを知っているから笑って見ていられるけど、まわりの大人は大変だったろうな。つーか何より本人たちが、めちゃくちゃ大変だったろうな。
19~23歳くらいまでって、私の記憶だと「人生で最も苛ついている時期」だったと思う。そんなことない人も、もちろんいらっしゃると思うけど…
誰にも理解されていない、と苛立ち、とうにハタチを過ぎたのに、これを持って戦うぞ、と思えるほどの武器を持ち合わせていない自分に苛立ち、先が見えなくて不安で、でも不安だと口に出せるほどの強さはなく、甘えは甘えであるという意味しか知らなかったから甘えるのが今よりもっと下手で、いつも自分が惨めで、まわりの目が気になるのに、気にしていること自体がダサいと思っていた。何に対してもいつも過敏で、いちいち過剰だった。
あの歳のころに、同年代の人たちと共同生活なんて、私ならとても出来なかっただろうな。3つ上の血の繋がりのない兄が作ったごはんを「おいしいよ、ありがとう」と言って食べられるような、優しい気づかいは持てなかっただろう。
あの状態から今までに、どれだけの対話や関係性のスクラップアンドビルドみたいな時間を経て彼らがここまで来たのかを考えると、それは身を抉るような途方もない道のりだっただろうと思い至る。面倒で、億劫で、何度も匙を投げただろう、それでもまだ、を繰り返しただろう。すごい。えらい。かっこいい。
やっぱり人間が人間同士でやることに、奇跡とか、チートとか、抜け道とか裏技とか、そういうのは無いんだな。泥くさくてみっともなくても、語彙を増やして言葉を積んで、必要なら躊躇なく破壊し、それでもまだ、もう一回やろうはじめから、と言い合って、それを繰り返しやるしかない。あの人たちはそれが出来て、誰一人欠けることなく、今もまだそれをやっているんだと思う。ほんとうにすごい。これが希望でないなら何だよ。
このシリーズでまだ観てないのがあと2作あるので、引き続き観ようと思う。が、過剰摂取は要注意。写真だけ見て、はわ~かわいい~!とか言ってるだけならいいけど、こういうのはわりと精神的に削られるね…真面目に見すぎなんだろうか。
ice cream castles in the air
2022年2月13日 (日) 19:09
なんの予定もない3連休だ。うれしい。木曜は、メールを送ってあるのに一切読んでいない人から定時後に電話がかかってきて、メールに書いたことをそのまま伝える、というゴミのような業務で終えた。この案件を早々に納品してしまわないと、呪詛だけが溜まっていく。
とはいえ3連休だ。うれしい。なんの予定もないこともうれしい。特に何をするか考えずに眠った。
たっぷり寝た。平日も6~8時間は寝ているのでかなり多く寝ているほうだとは思うけど、休日は特に、目覚ましをかけずに寝られるのがうれしい。
目が覚めて急に「最後に換気扇の掃除したんいつよ」と思い立ち、震えながらフタを開けてみたが、泣くほどは汚れていなくてホッとした。重曹のシートでピカピカにし、記録を残すためにツイートしておいた。
お腹がすいたので、良いパン屋で買ってあったいちじくとゴルゴンゾーラのパンをトースターであたためて食べた。神戸は本当に良いパン屋が多い。最高。果物とチーズとか、そういうの最近好き。オレンジの入ったサラダとか。
本の栞、という本屋さんでモノ・ホーミーさんが図案展をされているので、今日はそれを見に行く。身支度を整えて、さぁそろそろ出かけるかな、というころ、モノ・ホーミーさん本人から「今日から図案展が始まるので、もしお近くに行かれる機会がありましたらぜひ」という連絡が来て笑ってしまった。「いま家を出るところです、見てるんですか?笑」と返信したが、こういう細やかな気配りができるクリエイター(クリエイターという呼び方が合っているかわからん、ごめんなさい)はかなり少ないと思う。
本の栞は、存在は知っていたが入ったことはなかった。古書と新品がバランスよく並んでいて、人ん家の本棚みたいだ。漫画も絵本も画集もある。こういう本屋いいよね。まぁ私は本屋が一切気後れせずに入れるこの世で唯一の店、みたいな気持ちがあるから、どんな本屋も大好きですが。
モノ・ホーミーさんの展示は、本人の言葉通り小さな展示だったが、店の雰囲気やサイズ感にしっくりと合っていてとても良かった。私はモノ・ホーミーさんの図案が、その線がとても好きだ。線は「選択」だと感じる。
モノ・ホーミーさんの「するべきことは何ひとつ」と、(おそらく)スクリーンプリントの作品をひとつ、それから装丁が気に入った本と、スズキナオさんの「遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ」、のどちらを買うか迷って、後者に決め、お会計をして店を出た。
久しぶりに文庫本以外の本を買った気がする、本を買うとホクホクする。いや、借りても、もらっても、本が手元にあるとホクホクし、なおかつ安心する。本さえあれば、例えばこれから5時間ひとりぼっちで電車に乗ることになっても、何にも不安じゃないからだ。
どっか喫茶店で読んでから帰ろうかな、と思ったけど商店街が異様に混んでいる。天気もいいし、3連休やもんな、みんな外に出たいよね。わかるよ。元町映画館の前を通りがかり、フレデリック・ワイズマンの映画を見逃してしまったことに気づく。あああああ。
ちょうどお茶の時間でどこも混んでおり、うまく席を見つけられる自信がなくなったので、喫茶店は諦め、商店街を東へ。ステッカーを作るのでその用紙をシモジマで買い、センター街へ降りるといつのまにか韓国食材のお店が出来ている。カルグクスの生麺と袋麺、それからノグリのマイルド味を買った。
秋ごろに家中の植物が枯れたおしたことを思い出し、国際会館の近くの安い花屋さんでアイビーとあとひとつ、なんだっけ名前、なんかプクプクした、いや多肉植物ではなくて、まぁいいや、とにかく緑色のかわいいのを買った。300円くらい。
市役所の前で自転車を借り、海側を回って西へ、宇治川の商店街で買い物をしてから帰宅。スイミーのヨーグルトも買えばよかった。キウィのジャムがあるの、忘れてた。
帰宅後は推し(※ジンくん)がインスタにアップした写真(デカいエビを持ってる、髪ボサボサで白Tの愛おしいやつ)をphotoshopで加工し、ステッカーを作成した。ボサボサの髪を綺麗に透過すべく、丁寧に作業したが、そもそもの解像度が低すぎてあまり芳しくなかった。紙は悪くないけどトンボをつけてちゃんと切ればよかったな、反省しています。出来上がったステッカーを友人たちに送るため、封筒に入れて切手を貼った。
またしてもたっぷり寝た。とはいえ9時ごろには起きたので、ジーパンとニットをまとめて洗濯した。今日も天気がいい。カルグクスの袋麺を作って食べた。煮干しとか貝の出汁に、ペロペロした麺が合わせてあっておいしい。すこし胡椒が効いているけど、唐辛子の辛さは一切ない。カルグクスは韓国のうどんみたいなもので、出汁に決まりはないようだ。鶏や豚の場合もあるし、地方によっていろいろらしい。そしてこれは、ムール貝の出汁が入っているらしい。なるほど、ムール貝は良い。
昨日買ってきた植物を鉢に植え替え、ついでにベランダを掃除した。ベランダはすぐに枯葉が溜まる。前の家、ベランダの掃除なんかしたことあったかな。まぁ掃除するほど広くなかったか。今の家のベランダも広くはなく、どちらかというと狭いが、とにかく長い。
以前、実家の近くにある植木屋で買ったモッコウバラの鉢植えに、ポツポツと赤く芽のようなものが出ている。ほぼ枯れてない?と言いながら800円で買ったものだが、枯れてなかったらしい。よかった。咲くかな。咲くといいな。
部屋に入り、紅茶を入れ、チョコレートを食べる。養父にあるle fleuve(ル フルーヴ)のボンボンショコラが、立ち上がるほどおいしくて、ひとりで大騒ぎした。チョコレートに真面目に取り組み始めてから(取り組みっつーか、まぁ、食うほう、食うほうね)10年くらいになるので、最近ちょっと慣れてきているんじゃないか、もうあんまり「う、うま……ッッ!!!なんじゃこら!!!バカ!!!」みたいになることは、ないんじゃないか、と思っていたのだが、そんなことはなかった。すごい、これはすごい、なんだこれは、すごい、と頭がおかしくなり、あげく「感想やご意見をどうぞ」と書いてあるところへLINEを送ってしまった。私はジャンルは何であれ作者に直接感想を言うのが怖ろしくてたまらないのでめったにこんなことはしないが、よっぽど高まったんだろうな、と思う。LINEは後ほどスタッフの方からお返事があり、こんな忙しい時期に申し訳ないことをしたな、と思ったが「実店舗がないのでお客さんから感想を聞けるのがうれしい」とのことだったのでホッとした。
夜は豚ばら肉を焼いてサンチュとえごまの葉で包み、キムチとサムジャンをのせたものをキッチンで立ったまま食べた。お行儀が悪いとわかってはいるけど、これより良い自宅サムギョプサルの方法が思いつかない。うちにカセットコンロやホットプレートの類はないし、あったとしてもテーブルには換気扇がないのでここであまり肉を焼きたくない。無垢材の床なので油が飛ぶのもちょっと……とはいえ焼いた肉を皿に乗せてテーブルで包んで食べるのは嫌だ。焼きたてのをアチアチするのがいいんやん、皿に並べるなんて愚行でしょう。結果、コンロの前に立ち、肉を焼いては包み、食べ、また肉を焼き、ビールを飲む、というスタイルで毎回サムギョプサルをやっている。キッチンなら換気扇を強にできるし、床はPタイル、カウンターはステンレスなので油が飛ぼうがサムジャンが飛び散ろうが全く気にしなくていい、拭けばいいんだから。
夜、寝る前にベッドで映画館の上映スケジュールを確認する。「ハウスオブグッチ」と「コーダ あいのうた」で迷って、後者に決めた。副題がダサいけど、フェルディア・ウォルシュ=ピーロさんが出ている、というので観ておきたくなったのだ。7時半ぐらいには起きなあかんな。
焼いた食パンにバターを塗り、冷たいままのハムをのせた朝ごはんを食べる、おいしい。ハム、ももハムが一番好き。これはハムが冷たいままのほうが絶対においしい。
amazonでもらった期間限定のクーポンを使いたくて買ったジュースを開けて飲む。濃縮還元じゃない、ストレートのジュースってうまい。ストックしておきたいな、と思うけど、あったら水みたいに飲んでしまうからやめておく。
映画はシンプルに良い映画だった。歌う人を見ると理由がわからんが泣いてしまう。私は「歌う」という行為自体に思い入れや、思い出があるし、そもそも「歌う」という行為そのものに意味や系譜がありすぎる、歌うことそのものにストーリーがある。
フェルディア・ウォルシュ=ピーロさんはずいぶん大人になって、青年期、という顔をしていたけど、白桃のような頬は健在で、すんなりした立ち姿でそこに居て、それが良かった。バスで「シングストリート」のサウンドトラックを聴き、にこにこしながら帰宅。
録画してあった「あちこちオードリー」を見ながらおにぎりを食べ、午後はスズキナオさんの本を一気に読んだ。視線と視点について考えた。最後に松井工芸、という印刷会社をおひとりでされていた松井頼男さんという方の話が出てきて、図らずもシルクスクリーンの話だったので驚いた。松井さん、私、刷る女なんです、ちょっと、忘れてたけど。
今年はシルクシクリーン、再開しようと思う。
345度
2022年2月7日 (月) 21:53
柊鰯を初めて見たのは18歳のとき、上京し亀有に住んでいたときのことだ。近所をぶらぶら散歩していたら、国道沿いの古い家の戸口にそれが吊るしてあった。鰯の頭だけがついた、見るからに魔除けらしい見た目にギョッとし、何か見てはいけないものだったのではないか、という気分になった。
帰宅して調べ、あれに「柊鰯」という名前がついていることを知り、ほっとした。
私は初めて見るものや初めて知ることに、名前がついていると安心する。物体でも、感情でも、現象でも、とにかく名前がついているということは、私以外の大勢の誰かがそれについて既に知っており、共通のものとして扱っている証拠だからだ。私が知らないことを誰かが知っている、私が知っていることはこれで全部じゃないんだ、まだ他にも、たくさんあるんだ、と思うと安心する。ま、冷静に考えれば「私が知っていること」のほうが圧倒的に少ないでしょうけど。
亀有にはその後も6年ほど住んだが、柊鰯を他の家で見かけることはなかった。あの家だけだ。
ウィキペディアで柊鰯を検索すると「日本各地に広くみられる」と書いてあるが、生まれ育った神戸では見たことがなかった。まぁ私はニュータウン育ちなのでそもそも近所の家はみな団地かマンションか建売の戸建だから、それも関係しているかもしれんが。
「(鰯の)においで鬼を近づけないようにする」ということらしいが、この「においで」というのが日本文化的だな、などと思った。
目に見えず、手に取って確かめられない、でも確かに存在する「におい」というものの扱いは、国や民族や地域や環境によって色濃く違いが出るのではないか。知りたい。参考図書をお願いします。最近あまり本を読んでいない。
そういえば「お世話さま」と言われることも、亀有に住み始めて初めて経験したことだった。当時スーパーでバイトをしていたのだが、レジでお会計を終えた年配の(特に女性が多かったが)お客さんがみな「お世話さま」と言ってくれるのだ。用途は「ありがとう」が近いのだろうと思ったが、それよりは軽く、なぜか下町を感じてうれしかった。イントネーションが柔らかく、私にはうまく真似できないニュアンスがあった。昔、ここはもっと人通りの多いにぎやかな商店街だったんだろう、このおばあちゃんたちは下町育ちのおきゃんな娘さんたちで、八百屋さんや魚屋さんにも、私に言うのと同じように「お世話さま」と言ってきたんだろう、と想像すると、経験していないのに懐かしい気持ちになった。
しかし毎年のことだが節分は正月の余韻とチョコレートへの重課金の狭間で何も起きずに終わっていくな。今年の恵方は「北北西微北」だったらしく、微北て、と笑ってしまった。北北西を向いたあとすこし北を向くんだろうか。想像するとかわいい。
家臣には何も告げないで
2022年2月1日 (火) 21:47
おにぎりが苦手だ。いや、食べるのは得意。おにぎりを作るのが、苦手だ。
おにぎりが苦手な理由はだいたい百個くらいあって、いや、ふたつあって、ひとつは私が不器用だから、もうひとつは思い切りがわるいから、だと思っている。
職業や趣味がどちらかというと手先を動かす類のものなので人からはそう思われていないようだが、私は不器用だ。小学1年生のとき「まともにハサミが使えない」という理由で、母が学校に呼び出された。私自身にあまり危機感はなかったものの「なんかヤバいっぽい」という気配・プレッシャーだけを察知し、母の言った「お習字に行ってみる?」に素直に頷いた。先生に薦められたのか、母が考えたのかは知らないが、お習字教室に通えば、多少の器用さは身につくのでは、ということだったのだろうか。
経緯は分からんが、お習字はなかなか楽しかったし、固形墨をする音やにおいも好きだったし、母が習字道具を入れるために買ってくれた四角い黄色のリュックサックも気に入っていた。肩紐が赤いベルトで、手がなくて足だけあるニコちゃんマークのキャラクターが付いていたのをよく覚えている、かわいかった。
お習字教室に通ったことで、字は読める程度に書けるようになったし、体裁を整える程度の器用さは身に着いたのだと思う。ハサミでも、紙をまっすぐ切れるようになった。が、それでも器用とは言い難く、私はいつまでもシルバニアファミリーの家具などについている窓や柵などを模した付属のシールを正しい位置に貼り付けることが出来なかったし、ファミコンのコントローラのボタンを見ずに押すことが出来なかった。前者はいつも姉に貼ってもらうことで回避し、後者は「ストツーなら適当にいっぱい押せばなんとかなる」というカズくんのアドバイスによってどうにか凌いだ。
おにぎりを作るのに器用さが必要かどうか、には確証がないが、少なくとも手しか使えない料理なのだから関係はあるだろう。私が銅鍋を手に入れようが、圧力鍋を使いこなそうが、菜切り包丁をピカピカに砥ごうが、どれも全然関係ない、おにぎりを作るときに使えるのは手だけなのだ。
母も姉も、父もおにぎりが上手にできる。弟が自分の息子のために小さいおにぎりを作っているのを見た時も、こっそり驚いた。そうだよ、弟も、私より遥かに手先が器用だ。この家の人たちは基本的に全員手先が器用だ。私以外全員。
私の作るおにぎりの一番の問題点は「形状を保てず崩壊する」というところだと思う。手でつかんで一口食べると、そのままどんどんバラバラになるのだ。あんなに苦心して握ったのに、お茶碗とサランラップを使って一生懸命に成型したのに、おにぎりがおにぎりの形をしている時間が短すぎる。
おそらく、私は「どのくらいの力で握ればいいのか」がいまだに分かっていないんだと思う。もともと思い切りの悪いところがあるから、ひと思いにギュッ!が出来ない。フワフワした所在ない手つきでボソボソと遠慮がちに握り、もうこんなもんでええんかな、わからん、合ってんのか、わからん、と思っているから、その気持ちを具現化したような、ヤワなおにぎりが出来上がる。一口目で崩壊したおにぎりを仕方なくお箸で食べながら、ぼーっとする。おいしい、味はおいしいけど、でもこれはもう、おにぎりじゃないよ。
いつか確信に満ちた手つきで、確信を具現化したような、正三角形のかっこいいおにぎりが作れるようになりたい、と思うが、こういうタイプの「いつか」は永遠に来ないと知っている。そもそも年に1回作るかどうか、ってぐらい頻度が低いのに、そんなんで上達するはずがない。確固たる意志を強く持ち、挑み続けた者だけが、おにぎりを握れるようになるのだよ。
つーか、おにぎりって確固たる意志を強く持ち、挑み続けるような食べ物なのか?
この夜は台無しに
2022年1月28日 (金) 22:32
アナログフィッシュのベース・ボーカルである佐々木健太郎さんが大阪のFM802にご出演されたので、その放送をradikoで聞いた。先月バンドのあたらしいアルバム「SNS」が発売されたので、その“全曲解説”だ。全曲解説なんて、めずらしいな。
ラジオの中のいちコーナーとして健ちゃんがひとりで話すのだが、本人の「いかにも用意した原稿を読み上げていますよ」という感じと「でもちゃんと気持ちを込めて読み上げるぞ」という意気込みの両方を感じて、すごくよかった。健ちゃんらしいな、と思ったからだ。
健ちゃんはライブなどでは比較的自由奔放(に見える)な振る舞いを見せる人だし、歌声もソウルフルでファンキーな印象があるので、思いつきで行動するアドリブタイプの人かと思いがちだが、実際は「ここで腕を振り上げようと思って家で練習してきた」とか「ライブの前の晩にイメトレをする」、「お客さんがいるのを想像して、コール&レスポンスの練習をする」とか言っているので、わりとちゃんと準備をする人なんだと思う。
The La’sの曲をライブでカバーしたときも、カタカナで「デーシーゴー(※There she goes)」と歌詞を手書きした紙を用意し、それを足元に置いてカンペにしていた。
私は健ちゃんのこういうところがとても好きだ。お客さんに楽しんでほしくて、そのために自分に持てる力を発揮したくて、でもだからこそちゃんと用意していくぞ!準備万端でやるぞ!という振る舞いがすごく好きだし、にも関わらずずっと“ハート”とか“心”とかを取り出して見せてくれるような性質の人で居続けていることが、とても良いなと思う。まぶしい人だ。
全曲解説は内容もすごくおもしろかった。パーソナリティーの土井コマキさんも言っていたけど、こんなふうに自分の言葉で、自分のことだけじゃなく「下岡晃というシンガーソングライター」について話す佐々木健太郎は初めてだったのでは、と思う。私はもちろん下岡晃本人ではないし、そもそも全然関係ない人間なのに、なんかうれしい。
健ちゃんと下岡晃は別の人間なんだから当たり前だけど、10代からずっと友だちで、20年一緒にバンドをやっていても、健ちゃんには健ちゃんだけの「下岡晃観」があるのだ、と思うとうれしい。逆もまた然りなんだろう。
インタビューとかでもこのあたりをあまり突っ込んで聞く人おらんかったんちゃうかな。私が聞き手だったら佐々木健太郎に向かって「下岡晃というシンガーソングライターについてどう思いますか?」なんて聞かんもんな。質問がざっくりしすぎてるし、そう聞かれて出てくる言葉と「アルバムの全曲について解説してください」って言われて出てくる言葉とは、たぶん違うんじゃないかと思う。
「ロックバンドが歌詞に“居酒屋”って使うの?と思ってびっくりした」というようなことを言っていたのもよかった。この人は自分たちがロックバンドであると認識し、そのことに矜持があり、そして自分のど真ん中に今もなお“ロック”が燦然と刺さっているのだろうな、と思った。あぁすてきだな。かっこいいね。
あと「リリックがちょっとパーソナルすぎるかなと思って、ソロに回そうかとも思ったんですけど」と言っていたのも興味深かった。どうやって振り分けてるのか、聞いてみたかったから。
最近は「音楽に解説とかいい、説明しないで、要らない、そっとしておいてくれ」と思うことが多いから、聞こうかどうかちょっと迷ったけど、聞いてみてよかった。
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