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テケレッツのパー
2022年3月3日 (木) 21:57
2年ぶりに、立川談春の独演会へ行った。立川談春は私が一番好きな落語家で、談春の何が好きかというと、おじさんがひとり座布団に座ってただしゃべっているだけなのに、めちゃくちゃグルーヴィーなところだ。
この日の根多は「死神」と「らくだ」、どちらも死にまつわる古典落語の演目である。
根多に入る前、彼は死について、そして今この2つの根多をかけることについて、こう言った。「人間の死亡率って100%でしょ?生まれたから、全員死ぬの、これは決まってるの。なのにさ、今って、死を遠ざけるでしょ?あれが、どうもね、気に食わねえんですよ」と。
古典落語というのは、だいたい江戸時代から、明治、大正くらいまでに作られた落語の演目のことを指す。江戸時代はざっと400年くらい前のことなのだ。400年前、というと、そう遠い昔のことではないような気がしてくる。
このころ、死はもっと身近なものだっただろうと想像する。江戸時代の平均寿命を調べると31.7歳だと出てくるから、これはつまり、生まれて、無事に大きくなることが、とても困難だった、お産が本当に大変なことだった(今も本当に大変なことだと思うが)、ということなんだと思う。死因など分からず、調べようもないまま、人は死んでいったのだろう。
400年前に比べると死が少し遠くなった現代において、死は恐ろしく、日常から乖離した、忌み嫌うべきものである、という価値観が、確かに存在するかもしれない。そのわりに「死にたい」は発言としてカジュアルに扱われている気もする。
とはいえ私は死が、生の真裏にあるものだとは思っていない。相反するもの、生から一番遠いところにあるものだと、どうしても思えない。死は遠くなんかない、歳が若かろうが深刻な持病がなかろうが国が平和だろうが、死はいつだってすぐ傍にいて、なにか妙に、甘美な顔をしているときがある。と思う。
談春の「死神」を聴きながら、私はドラマ「アンナチュラル」で野木亜紀子さんが書いた台詞を思い出していた。交通事故で亡くなった妻の遺骨を引き取ることができないでいるヤシキさんが「バチがあたったんだ、俺がロクな亭主じゃなかったから、神様が取り上げたんだよ」と、自分を責めるシーンだ。
松重豊演じる神倉さんは「バチなんかじゃない、人が死ぬのに良い人も悪い人もない。たまたま命を落とすんです。そして私たちは、たまたま生きている。たまたま生きている私たちは、死を忌まわしいものにしてはいけないんです」と返す。たまたま生きている。そうだ、私がいま生きているのはたまたまだ。私が良い人だからでも、前世で徳を積んだからでも、なんでもない、ただ「たまたま生きている」のだ。
ドラマ「アンナチュラル」は法医解剖医の物語だったから、談春の言う死の話とは、また別のものであると理解しているが、それでも、人がどのように死を捉え、扱っているのかが垣間見えるような気がした。
談春の「死神」は、主人公が洞窟を自力で出て、噺は死神と出会った冒頭の橋のシーンに戻る、というサゲだった。おお…ループしている…と思い、読後感が良かった。
私がループするものに惹かれるのはどうしてだろう、もしかして、ロックンロールが好きだからですか?
一方の「らくだ」、これは演目のタイトルであるとともに人のあだ名で、らくだはこの噺の登場人物ではあるが、本人はひと言も話さない。死んでいるからだ。らくだは河豚にあたって自宅で死に、それを見つけた彼の兄貴分と、通りがかった屑屋の男とをメインに噺が進む。主要キャストが既に死んでて出てこない根多って、他にあるんだろうか。落語以外だと「ゴドーを待ちわびて」、「リリィ・シュシュのすべて」、映画「桐島、部活やめるってよ」が同じ構造(タイトルになっている人物が最後まで出てこない)だと思っているけど、他にもあったら知りたい。
あ、ねぇ「マシマロ」も該当する?奥田民生の。でも一応歌詞には出てくるからな……
談春の「らくだ」は、登場人物のコントラストとその関係性や感情の移り変わりがあまりに鮮やかでそれが美しく、全くもって不謹慎な噺なのにたくさん笑った。すべてのものごとにはあらゆる側面があるが、死もまた例外ではなく、あらゆる側面があるのだと思った。
談春は今年の暮れに、また「芝浜」をやりに来てくれるらしい。
5年ぶりかな。うれしい。楽しみ。
と、ここまで書いて下書きに置いていたら、ここ数日間でいろんなことがあった。「死」はまたその手触りを変え、想像で扱う部分と実情を知ることで扱う部分とがそもそも別なんだろうな、などと思った。真正面から向き合うととても正気ではいられないし、自分で「真正面から向き合っている」と思うのも怖い。
「普通にしなきゃ、いつもどおりにしなきゃ」と一歩ずつ踏みしめているのに「普通にしなきゃ、と思ってる時点で全然いつもどおりじゃないよ」という穴が現れる。
こういう時は寒くしているのと、おなかが空いているのが特に良くない、あたたかいものを食べ、好きな人たちのことだけ考え、やわらかい布団に首まで埋まって寝る。どうかみんなもそうしてください。
インポータントビジネス
2022年2月22日 (火) 22:22
ブログの下書きリストに、呪詛のような記事が溜まっている。今やっている仕事のせいだ。呪詛は呪詛でしかないのでこれは公開できない。おもしろい呪詛なら公開してもいいんですけど。おもしろい呪詛ってなんだ。
今日も珍妙な色のグミを食べている。グミはめちゃくちゃお腹に溜まる気がする。
グミの食べ過ぎで(いや他にも思い当たるフシはある)、体重が増えている。運動量は減っていないから、単純に食べ過ぎです。最近食欲すごくて…なんでしょうね…
さらに推しの体重が61kgだと知って絶望している。ほっせぇな~!鎖骨浮いてんな~!とは思っていたけど61キロて…思わずBMIを計算してしまった。私のジンくんへの想いは「守りたい」が97%くらいを占めているので、休暇明けでそんなに痩せているとなると、やや心配である。とはいえ推しの食生活など私は一切関われるものではないしなぁ。あ、食生活に限った話じゃなかった。
BTSが海外旅行に行く映像コンテンツを寝る前に少しずつ観ている。ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの3ヵ国を10日間でまわる、というもので、これは2016年に撮影したものらしいから、当時長男のジンくんは24歳、末っ子グクちゃんは19歳、ということになる。若い、若いっつーか、まるで子どもだ。もちろんすごくかわいいけど。
BTSはみんなよくしゃべるし、仲良しだし、コロコロとよく笑い、7人がごちゃまぜでワチャワチャとちょっかいをかけ合うさまが愛おしいグループだが、10代後半から20代前半の、あの過敏さ、不安定さが掛け算になると、ちょっと映像コンテンツとしてギリギリすぎるんじゃないかと思う。常にどこかで誰かが何か(スーツケース、鞄、パスポートなど)を失くし、それを処理している間にまた何か起きる。不穏な空気を隠せるほど器用じゃないし、全員落ち着きがなく、取り繕うのも下手で、ほっこり旅番組とは言い難い、謎の緊迫感がある。あと企画もわりと粗い。
空港からテキトーなバスに乗り、当然目的地に辿り着かず、スタッフの顔色を伺う様子を隠せないまま、それでも自由に振る舞うテヒョンを見ていると、あまりにも身に覚えがありすぎて、いたたまれないような気持ちになった。わ、若さよ…たまらんな…
私はこれが2016年のことだと分かっていて、なおかつ今の彼らを知っているから笑って見ていられるけど、まわりの大人は大変だったろうな。つーか何より本人たちが、めちゃくちゃ大変だったろうな。
19~23歳くらいまでって、私の記憶だと「人生で最も苛ついている時期」だったと思う。そんなことない人も、もちろんいらっしゃると思うけど…
誰にも理解されていない、と苛立ち、とうにハタチを過ぎたのに、これを持って戦うぞ、と思えるほどの武器を持ち合わせていない自分に苛立ち、先が見えなくて不安で、でも不安だと口に出せるほどの強さはなく、甘えは甘えであるという意味しか知らなかったから甘えるのが今よりもっと下手で、いつも自分が惨めで、まわりの目が気になるのに、気にしていること自体がダサいと思っていた。何に対してもいつも過敏で、いちいち過剰だった。
あの歳のころに、同年代の人たちと共同生活なんて、私ならとても出来なかっただろうな。3つ上の血の繋がりのない兄が作ったごはんを「おいしいよ、ありがとう」と言って食べられるような、優しい気づかいは持てなかっただろう。
あの状態から今までに、どれだけの対話や関係性のスクラップアンドビルドみたいな時間を経て彼らがここまで来たのかを考えると、それは身を抉るような途方もない道のりだっただろうと思い至る。面倒で、億劫で、何度も匙を投げただろう、それでもまだ、を繰り返しただろう。すごい。えらい。かっこいい。
やっぱり人間が人間同士でやることに、奇跡とか、チートとか、抜け道とか裏技とか、そういうのは無いんだな。泥くさくてみっともなくても、語彙を増やして言葉を積んで、必要なら躊躇なく破壊し、それでもまだ、もう一回やろうはじめから、と言い合って、それを繰り返しやるしかない。あの人たちはそれが出来て、誰一人欠けることなく、今もまだそれをやっているんだと思う。ほんとうにすごい。これが希望でないなら何だよ。
このシリーズでまだ観てないのがあと2作あるので、引き続き観ようと思う。が、過剰摂取は要注意。写真だけ見て、はわ~かわいい~!とか言ってるだけならいいけど、こういうのはわりと精神的に削られるね…真面目に見すぎなんだろうか。
ice cream castles in the air
2022年2月13日 (日) 19:09
なんの予定もない3連休だ。うれしい。木曜は、メールを送ってあるのに一切読んでいない人から定時後に電話がかかってきて、メールに書いたことをそのまま伝える、というゴミのような業務で終えた。この案件を早々に納品してしまわないと、呪詛だけが溜まっていく。
とはいえ3連休だ。うれしい。なんの予定もないこともうれしい。特に何をするか考えずに眠った。
たっぷり寝た。平日も6~8時間は寝ているのでかなり多く寝ているほうだとは思うけど、休日は特に、目覚ましをかけずに寝られるのがうれしい。
目が覚めて急に「最後に換気扇の掃除したんいつよ」と思い立ち、震えながらフタを開けてみたが、泣くほどは汚れていなくてホッとした。重曹のシートでピカピカにし、記録を残すためにツイートしておいた。
お腹がすいたので、良いパン屋で買ってあったいちじくとゴルゴンゾーラのパンをトースターであたためて食べた。神戸は本当に良いパン屋が多い。最高。果物とチーズとか、そういうの最近好き。オレンジの入ったサラダとか。
本の栞、という本屋さんでモノ・ホーミーさんが図案展をされているので、今日はそれを見に行く。身支度を整えて、さぁそろそろ出かけるかな、というころ、モノ・ホーミーさん本人から「今日から図案展が始まるので、もしお近くに行かれる機会がありましたらぜひ」という連絡が来て笑ってしまった。「いま家を出るところです、見てるんですか?笑」と返信したが、こういう細やかな気配りができるクリエイター(クリエイターという呼び方が合っているかわからん、ごめんなさい)はかなり少ないと思う。
本の栞は、存在は知っていたが入ったことはなかった。古書と新品がバランスよく並んでいて、人ん家の本棚みたいだ。漫画も絵本も画集もある。こういう本屋いいよね。まぁ私は本屋が一切気後れせずに入れるこの世で唯一の店、みたいな気持ちがあるから、どんな本屋も大好きですが。
モノ・ホーミーさんの展示は、本人の言葉通り小さな展示だったが、店の雰囲気やサイズ感にしっくりと合っていてとても良かった。私はモノ・ホーミーさんの図案が、その線がとても好きだ。線は「選択」だと感じる。
モノ・ホーミーさんの「するべきことは何ひとつ」と、(おそらく)スクリーンプリントの作品をひとつ、それから装丁が気に入った本と、スズキナオさんの「遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ」、のどちらを買うか迷って、後者に決め、お会計をして店を出た。
久しぶりに文庫本以外の本を買った気がする、本を買うとホクホクする。いや、借りても、もらっても、本が手元にあるとホクホクし、なおかつ安心する。本さえあれば、例えばこれから5時間ひとりぼっちで電車に乗ることになっても、何にも不安じゃないからだ。
どっか喫茶店で読んでから帰ろうかな、と思ったけど商店街が異様に混んでいる。天気もいいし、3連休やもんな、みんな外に出たいよね。わかるよ。元町映画館の前を通りがかり、フレデリック・ワイズマンの映画を見逃してしまったことに気づく。あああああ。
ちょうどお茶の時間でどこも混んでおり、うまく席を見つけられる自信がなくなったので、喫茶店は諦め、商店街を東へ。ステッカーを作るのでその用紙をシモジマで買い、センター街へ降りるといつのまにか韓国食材のお店が出来ている。カルグクスの生麺と袋麺、それからノグリのマイルド味を買った。
秋ごろに家中の植物が枯れたおしたことを思い出し、国際会館の近くの安い花屋さんでアイビーとあとひとつ、なんだっけ名前、なんかプクプクした、いや多肉植物ではなくて、まぁいいや、とにかく緑色のかわいいのを買った。300円くらい。
市役所の前で自転車を借り、海側を回って西へ、宇治川の商店街で買い物をしてから帰宅。スイミーのヨーグルトも買えばよかった。キウィのジャムがあるの、忘れてた。
帰宅後は推し(※ジンくん)がインスタにアップした写真(デカいエビを持ってる、髪ボサボサで白Tの愛おしいやつ)をphotoshopで加工し、ステッカーを作成した。ボサボサの髪を綺麗に透過すべく、丁寧に作業したが、そもそもの解像度が低すぎてあまり芳しくなかった。紙は悪くないけどトンボをつけてちゃんと切ればよかったな、反省しています。出来上がったステッカーを友人たちに送るため、封筒に入れて切手を貼った。
またしてもたっぷり寝た。とはいえ9時ごろには起きたので、ジーパンとニットをまとめて洗濯した。今日も天気がいい。カルグクスの袋麺を作って食べた。煮干しとか貝の出汁に、ペロペロした麺が合わせてあっておいしい。すこし胡椒が効いているけど、唐辛子の辛さは一切ない。カルグクスは韓国のうどんみたいなもので、出汁に決まりはないようだ。鶏や豚の場合もあるし、地方によっていろいろらしい。そしてこれは、ムール貝の出汁が入っているらしい。なるほど、ムール貝は良い。
昨日買ってきた植物を鉢に植え替え、ついでにベランダを掃除した。ベランダはすぐに枯葉が溜まる。前の家、ベランダの掃除なんかしたことあったかな。まぁ掃除するほど広くなかったか。今の家のベランダも広くはなく、どちらかというと狭いが、とにかく長い。
以前、実家の近くにある植木屋で買ったモッコウバラの鉢植えに、ポツポツと赤く芽のようなものが出ている。ほぼ枯れてない?と言いながら800円で買ったものだが、枯れてなかったらしい。よかった。咲くかな。咲くといいな。
部屋に入り、紅茶を入れ、チョコレートを食べる。養父にあるle fleuve(ル フルーヴ)のボンボンショコラが、立ち上がるほどおいしくて、ひとりで大騒ぎした。チョコレートに真面目に取り組み始めてから(取り組みっつーか、まぁ、食うほう、食うほうね)10年くらいになるので、最近ちょっと慣れてきているんじゃないか、もうあんまり「う、うま……ッッ!!!なんじゃこら!!!バカ!!!」みたいになることは、ないんじゃないか、と思っていたのだが、そんなことはなかった。すごい、これはすごい、なんだこれは、すごい、と頭がおかしくなり、あげく「感想やご意見をどうぞ」と書いてあるところへLINEを送ってしまった。私はジャンルは何であれ作者に直接感想を言うのが怖ろしくてたまらないのでめったにこんなことはしないが、よっぽど高まったんだろうな、と思う。LINEは後ほどスタッフの方からお返事があり、こんな忙しい時期に申し訳ないことをしたな、と思ったが「実店舗がないのでお客さんから感想を聞けるのがうれしい」とのことだったのでホッとした。
夜は豚ばら肉を焼いてサンチュとえごまの葉で包み、キムチとサムジャンをのせたものをキッチンで立ったまま食べた。お行儀が悪いとわかってはいるけど、これより良い自宅サムギョプサルの方法が思いつかない。うちにカセットコンロやホットプレートの類はないし、あったとしてもテーブルには換気扇がないのでここであまり肉を焼きたくない。無垢材の床なので油が飛ぶのもちょっと……とはいえ焼いた肉を皿に乗せてテーブルで包んで食べるのは嫌だ。焼きたてのをアチアチするのがいいんやん、皿に並べるなんて愚行でしょう。結果、コンロの前に立ち、肉を焼いては包み、食べ、また肉を焼き、ビールを飲む、というスタイルで毎回サムギョプサルをやっている。キッチンなら換気扇を強にできるし、床はPタイル、カウンターはステンレスなので油が飛ぼうがサムジャンが飛び散ろうが全く気にしなくていい、拭けばいいんだから。
夜、寝る前にベッドで映画館の上映スケジュールを確認する。「ハウスオブグッチ」と「コーダ あいのうた」で迷って、後者に決めた。副題がダサいけど、フェルディア・ウォルシュ=ピーロさんが出ている、というので観ておきたくなったのだ。7時半ぐらいには起きなあかんな。
焼いた食パンにバターを塗り、冷たいままのハムをのせた朝ごはんを食べる、おいしい。ハム、ももハムが一番好き。これはハムが冷たいままのほうが絶対においしい。
amazonでもらった期間限定のクーポンを使いたくて買ったジュースを開けて飲む。濃縮還元じゃない、ストレートのジュースってうまい。ストックしておきたいな、と思うけど、あったら水みたいに飲んでしまうからやめておく。
映画はシンプルに良い映画だった。歌う人を見ると理由がわからんが泣いてしまう。私は「歌う」という行為自体に思い入れや、思い出があるし、そもそも「歌う」という行為そのものに意味や系譜がありすぎる、歌うことそのものにストーリーがある。
フェルディア・ウォルシュ=ピーロさんはずいぶん大人になって、青年期、という顔をしていたけど、白桃のような頬は健在で、すんなりした立ち姿でそこに居て、それが良かった。バスで「シングストリート」のサウンドトラックを聴き、にこにこしながら帰宅。
録画してあった「あちこちオードリー」を見ながらおにぎりを食べ、午後はスズキナオさんの本を一気に読んだ。視線と視点について考えた。最後に松井工芸、という印刷会社をおひとりでされていた松井頼男さんという方の話が出てきて、図らずもシルクスクリーンの話だったので驚いた。松井さん、私、刷る女なんです、ちょっと、忘れてたけど。
今年はシルクシクリーン、再開しようと思う。
345度
2022年2月7日 (月) 21:53
柊鰯を初めて見たのは18歳のとき、上京し亀有に住んでいたときのことだ。近所をぶらぶら散歩していたら、国道沿いの古い家の戸口にそれが吊るしてあった。鰯の頭だけがついた、見るからに魔除けらしい見た目にギョッとし、何か見てはいけないものだったのではないか、という気分になった。
帰宅して調べ、あれに「柊鰯」という名前がついていることを知り、ほっとした。
私は初めて見るものや初めて知ることに、名前がついていると安心する。物体でも、感情でも、現象でも、とにかく名前がついているということは、私以外の大勢の誰かがそれについて既に知っており、共通のものとして扱っている証拠だからだ。私が知らないことを誰かが知っている、私が知っていることはこれで全部じゃないんだ、まだ他にも、たくさんあるんだ、と思うと安心する。ま、冷静に考えれば「私が知っていること」のほうが圧倒的に少ないでしょうけど。
亀有にはその後も6年ほど住んだが、柊鰯を他の家で見かけることはなかった。あの家だけだ。
ウィキペディアで柊鰯を検索すると「日本各地に広くみられる」と書いてあるが、生まれ育った神戸では見たことがなかった。まぁ私はニュータウン育ちなのでそもそも近所の家はみな団地かマンションか建売の戸建だから、それも関係しているかもしれんが。
「(鰯の)においで鬼を近づけないようにする」ということらしいが、この「においで」というのが日本文化的だな、などと思った。
目に見えず、手に取って確かめられない、でも確かに存在する「におい」というものの扱いは、国や民族や地域や環境によって色濃く違いが出るのではないか。知りたい。参考図書をお願いします。最近あまり本を読んでいない。
そういえば「お世話さま」と言われることも、亀有に住み始めて初めて経験したことだった。当時スーパーでバイトをしていたのだが、レジでお会計を終えた年配の(特に女性が多かったが)お客さんがみな「お世話さま」と言ってくれるのだ。用途は「ありがとう」が近いのだろうと思ったが、それよりは軽く、なぜか下町を感じてうれしかった。イントネーションが柔らかく、私にはうまく真似できないニュアンスがあった。昔、ここはもっと人通りの多いにぎやかな商店街だったんだろう、このおばあちゃんたちは下町育ちのおきゃんな娘さんたちで、八百屋さんや魚屋さんにも、私に言うのと同じように「お世話さま」と言ってきたんだろう、と想像すると、経験していないのに懐かしい気持ちになった。
しかし毎年のことだが節分は正月の余韻とチョコレートへの重課金の狭間で何も起きずに終わっていくな。今年の恵方は「北北西微北」だったらしく、微北て、と笑ってしまった。北北西を向いたあとすこし北を向くんだろうか。想像するとかわいい。
家臣には何も告げないで
2022年2月1日 (火) 21:47
おにぎりが苦手だ。いや、食べるのは得意。おにぎりを作るのが、苦手だ。
おにぎりが苦手な理由はだいたい百個くらいあって、いや、ふたつあって、ひとつは私が不器用だから、もうひとつは思い切りがわるいから、だと思っている。
職業や趣味がどちらかというと手先を動かす類のものなので人からはそう思われていないようだが、私は不器用だ。小学1年生のとき「まともにハサミが使えない」という理由で、母が学校に呼び出された。私自身にあまり危機感はなかったものの「なんかヤバいっぽい」という気配・プレッシャーだけを察知し、母の言った「お習字に行ってみる?」に素直に頷いた。先生に薦められたのか、母が考えたのかは知らないが、お習字教室に通えば、多少の器用さは身につくのでは、ということだったのだろうか。
経緯は分からんが、お習字はなかなか楽しかったし、固形墨をする音やにおいも好きだったし、母が習字道具を入れるために買ってくれた四角い黄色のリュックサックも気に入っていた。肩紐が赤いベルトで、手がなくて足だけあるニコちゃんマークのキャラクターが付いていたのをよく覚えている、かわいかった。
お習字教室に通ったことで、字は読める程度に書けるようになったし、体裁を整える程度の器用さは身に着いたのだと思う。ハサミでも、紙をまっすぐ切れるようになった。が、それでも器用とは言い難く、私はいつまでもシルバニアファミリーの家具などについている窓や柵などを模した付属のシールを正しい位置に貼り付けることが出来なかったし、ファミコンのコントローラのボタンを見ずに押すことが出来なかった。前者はいつも姉に貼ってもらうことで回避し、後者は「ストツーなら適当にいっぱい押せばなんとかなる」というカズくんのアドバイスによってどうにか凌いだ。
おにぎりを作るのに器用さが必要かどうか、には確証がないが、少なくとも手しか使えない料理なのだから関係はあるだろう。私が銅鍋を手に入れようが、圧力鍋を使いこなそうが、菜切り包丁をピカピカに砥ごうが、どれも全然関係ない、おにぎりを作るときに使えるのは手だけなのだ。
母も姉も、父もおにぎりが上手にできる。弟が自分の息子のために小さいおにぎりを作っているのを見た時も、こっそり驚いた。そうだよ、弟も、私より遥かに手先が器用だ。この家の人たちは基本的に全員手先が器用だ。私以外全員。
私の作るおにぎりの一番の問題点は「形状を保てず崩壊する」というところだと思う。手でつかんで一口食べると、そのままどんどんバラバラになるのだ。あんなに苦心して握ったのに、お茶碗とサランラップを使って一生懸命に成型したのに、おにぎりがおにぎりの形をしている時間が短すぎる。
おそらく、私は「どのくらいの力で握ればいいのか」がいまだに分かっていないんだと思う。もともと思い切りの悪いところがあるから、ひと思いにギュッ!が出来ない。フワフワした所在ない手つきでボソボソと遠慮がちに握り、もうこんなもんでええんかな、わからん、合ってんのか、わからん、と思っているから、その気持ちを具現化したような、ヤワなおにぎりが出来上がる。一口目で崩壊したおにぎりを仕方なくお箸で食べながら、ぼーっとする。おいしい、味はおいしいけど、でもこれはもう、おにぎりじゃないよ。
いつか確信に満ちた手つきで、確信を具現化したような、正三角形のかっこいいおにぎりが作れるようになりたい、と思うが、こういうタイプの「いつか」は永遠に来ないと知っている。そもそも年に1回作るかどうか、ってぐらい頻度が低いのに、そんなんで上達するはずがない。確固たる意志を強く持ち、挑み続けた者だけが、おにぎりを握れるようになるのだよ。
つーか、おにぎりって確固たる意志を強く持ち、挑み続けるような食べ物なのか?
ウロボロス
2022年1月27日 (木) 21:24
格言とか名言みたいなものに、いちいち「ッハァーうるせぇな!」と思ってしまう。若いからそうなんだ、若いからトガってしまうだけだ、などと思っていたが、もう若くない今でもまだ、日めくりカレンダーに書いてある「感謝するから 幸せになる」という格言に「ッカー!うるせぇうるせぇ!」と思っているから年齢は関係ないようだ。これはもう私の性格だ。根性がひねくれて拗れ、自分でも原型が分からない。おかしい。幼少期はドレス姿のプリンセスやトゥシューズのバレリーナ、セーラー服で戦う美少女たちが好きだったはずなのに、つまり、ごく真っ当に王道を歩いていたはずなのに、どこでどうなったらこうなるんだろう。自分のことなのにわからない。ドレス姿のプリンセスは「感謝するから 幸せになる」と声をかけられて「うるせ~!」とは言わないだろう。
試しに「感謝するから 幸せになる」と声をかけられて「そうですね、ほんとうにそのとおりです」と柔らかに微笑み、肯定の言葉を発する自分の姿を想像してみる。……胡散臭いな。思ってないことを口にするなよ。しかもうまく笑えずに顔が歪んでいそう。
でも何の疑いもなく「そうですね、ほんとうにそのとおりです」と言える人のほうが、素直で、かわいいよな。それはそうだよ、ほんとうにそう思います。
えーでもさぁーだってさぁー「感謝するから 幸せになる」、のか?マジ?だって逆もあるでしょう。「幸せだから 感謝できる」んじゃないか?これは“にわとりたまご案件”だ、たまごが先か・にわとりが先か、のアレじゃないですか。だから受け取る人によって、直面している場によって、いつでも簡単に前後が入れ替わるじゃないですか。だから「感謝するから!幸せになる!!!」つって大声で言い切ってドヤ顔されると「うるっせぇなタココラ」ってなっちゃうんだよ私は。言い切るなよお前は。筆文字でえらそうにすんな。
一方これが「私は感謝するから幸せになれたんだと思う」だった場合、私は全然「ハァ?」とも「うるせぇーーー」ともならない。不思議だ。
「私は感謝するから幸せになれたんだと思う」と言われたら、私は「そうかそうか、それはすてきだ、よかったね」と言える。顔を歪めたりせずに言える。言外にある「あくまで私見ですが」の部分によって、これは個の話だ、と感じることができるからだろうか?「じゃあ今は幸せなんだね、よかった、幸せでいてね」と言える。初対面の人にも言える。
結局、私は人数が多いほうに向けて言ってる言葉が嫌いなんだろう、と思い至る。個の話だけしてくれ、どうせ聞くのは私だから、私も個でしかないから、あなたも個なのだし、と思っている。
でもまぁ日めくりカレンダーに「私は感謝するから幸せになれたんだと思う」って書いても売れへんやろうな。誰?急に何の話?ってなるもんね。だからしょうがないよな。別に怒ってないよ。
こんなことに1,000字くらいかけて、読み返してみると、今度は自分にも「ハーうるせぇな!ごちゃごちゃ言いやがって!」と思う。ループして読む文章みたいだ。あ、ねぇあれ何て言いましたっけ、あの、蛇がさ、自分の尾を噛んで、輪っかになってるやつ、あれなんて名前でしたっけ。
ちなみに蛇はね、韓国語で「뱀(baem)」と言います。昨日習いました。
油断すると大人になっちまう
2022年1月25日 (火) 22:17
ファッションをはじめとした流行の類は、繰り返すものなのだそうだ。だいたい7年ごとで一周し、この周期を繰り返すらしい。
子どもの頃、母が「おかあさんたちが若いときもそれ流行ったわ」と言うのを聞いて「そんなわけないやん最近の流行りやのに」と思っていたが、最近は私もセンター街を歩く若い女の子のブーツを見て「あれ、なんかそういうの安室ちゃんが履いてたけど、今また流行ってんねんな」と思うようになった。母が言っていたことは本当だったのだ。厚底の靴が流行るのは今回で何回目なんだろうか。
先日、仕事で少しお世話になったイベントに顔を出したら思いのほか仕事モードになってしまい、心の切り替えが難しかった。いや、思いのほかっつっても先方はお仕事中なのだから当然仕事モードだろうけど。つーかなんの切り替えやねん、と思うけど、これはアレか?ペルソナの切り替えか?ペルソナ!
休日なので私は名刺も持ってないし、こういうときの大人っぽい振る舞いがさっぱりわからない。“大人っぽい振る舞い”とか言うてる時点でもう違うんやろうな…
「(関係者に)紹介しますのでこちらへどうぞ」などと言われて「いやいや、えーと、全然、その、私みたいなもんが、アハハ」とよく分からないことをモゴモゴ言ってしまう。ダサい。
とは言え仕事ぶりを褒めていただいて嬉しかった。が、「ヤハ~ありがとうございます恐縮です」と言ってしまって喜び方もダサかった。
休日、びっしりとやりたいことを決めたのに、起きたら雨だったので、全部の予定を流してしまった。雨の日に家にいて、のんびり過ごすのは好きだが、雨の日に傘をさして出かけるのが億劫だ。そのうえ「私が休みなんだから雨なんか降るはずがない」と思っているフシがある。何様のつもりなんだ。神か?
結局ネットフリックスで韓国のラブコメドラマを延々観て過ごした。国内外問わず「ドラマはやっぱラブコメっしょ!ガハハ!」と思ってるんですけど、どうですか?同意?同意??
happy watching downton abbey
2022年1月21日 (金) 21:54
映画館で観たい映画が多いが、タイミングが悪いせいで、全然観られない。20時40分開始の映画を観るまで時間をつぶすのはなんとなく億劫だし(億劫じゃないときも全然あるのに)、17時50分開始の映画は仕事の後では間に合わない。予告編があるから本編には間に合うだろうけど、私は映画館に遅れて入るのが苦手だ。
仕方ないのでとぼとぼ家に帰り、ネットフリックスでドラマを観ている。ネットフリックスは続きをどんどん自動再生してくるのでやめどきが分からない。「自動再生してくる」というか、デフォルトでそういう設定になっているだけで、私が変更すればいいのだろうけど。
やめどきがわからないので延々テレビ画面の前で夜を過ごす。ストーブとブランケットでぬくぬくし、あたたかいココアか紅茶をガブガブ飲み、夜更かしがとまらない。ちょっと寝不足気味です。まずい。夜更かししだすと体重が増えるのはどういうことなの、不思議、と思ったけど、普通にココアが原因なんちゃうの?あとココアにマシュマロ入れてるやん。それやん。不思議、やないねん。
昨年末からマーベルヒーローの映画を観ている。ちょこちょこ観た作品もあるけど、関連がよく分からないのでアベンジャーズが観られない、順番もよく分からない、ちゃんと観れば好きなはずだが、調べるのが面倒でずっと放置している旨をもっちゃん(友人)に話したら、履修表を作ってくれたのだ。これがとてもよく出来ていて、全体のフェーズもわかりやすいし、どの順で観ればいいかわかりやすいし、もっちゃんが好きな作品も明記してある。やっぱこういうのは好きな人にレクチャーされるのが一番いいなぁ~!!!と大声で叫びながら、私はまたテレビ画面の前で夜を過ごす。
そういえばHiGH&LOWシリーズを観たときも、ドラマ版と映画版がそれぞれいくつかあって、何?どれ?どの順?とTwitterで言っていたら、ねたりないさんが教えてくれたのだった。というか「ねたりないさんが詳しいっぽいな~教えてくれんかな~」とモジモジしていたら連絡をくれた。その節はありがとうございました。
「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」まで履修完了した現時点での私の推しマーベルヒーローは、アイアンマンに決定した。劇伴にAC/DCが多用されるのが好き(めっちゃ合ってる)だし、あとはアイアンマンは根が技術者というかエンジニアで、それをベースに仕事をしているところがいいな、と思う。「アイアンマン3」で身ぐるみ剥がされてメソメソしてるアイアンマンが、子どもに「メカニックなんでしょ?なんか作れば?」と言われているあたりのシーンはグッときた。ホームセンターで買い集めた材料でいろんな武器を作り、それでひとり戦うスタークおじさんは全く“アイアン”を着ていないのに、マインドが“アイアン”なのだ。いいぞいいぞ。
それに、スタークおじさんは精神的にあまり安定していないところも良いな、と思う。エイジ・オブ・ウルトロン以降のことはまだ観ていないので分からないが、アイアンマンが精神的に“アイアン”な部分はほとんどない気がする。迷い、悩み、悔い、強がり、怯えもしている。冗談を言って誤魔化したり、誤魔化しきれずに身体が付いてこない日もあったりする。脆い。ヒーローものの映画なんだから強くないと話にならんとは思うけど、でも弱さや脆さは人を魅力的に見せることもあるよなぁと思う。私は人が弱さや脆さをどのように捉え、どのように扱うかに興味がある。フィクションであっても。
今映画館でかかってるスパイダーマンも観たいけど、たぶん間に合わなさそう。引き続き履修を進めます。フレデリック・ワイズマンの映画も観たい、あれ、ボストンのやつ。今週末始まるんじゃなかったか。いつ観ようかな。どうせ長いでしょ、3時間ぐらいあるでしょ、と思ったら247分らしい。4時間半……!ねぇ編集したの?編集したけど247分なの?撮ったやつ全部入れたんかな、頑張って撮ったから全部観てほしいのか?かわいいね。
日記(パン)
2022年1月14日 (金) 21:03
今年いちばん高い食事をし、おいしかったね、と言い合いながら友人を駅まで送り、ご機嫌で帰り道を歩きながら気づく。パンがない。明日の朝、食べるパンがない。
私は朝はパン、いや、できれば昼も夜もパンが食べたい。パンが好きだからだ。
通りがかったセブンイレブンで、適当なパンを買おうとするも、食べたいパンは無い。間に合わせでとりあえず食パンを買うべきか悩むが、明日は祝日だ。家にパンがないなら、パンを食べに行けば良いじゃない。よしそうしよう。
翌朝、起きたら8時半だった。早起きとは言い難いが、休日にしては悪くない。天気もいい。昨日に引き続き、洗濯もしよう。寝ているうちに届いていたiPhoneの通知を確認し、それに返信したり、推し(ジンくん)の写真を眺めて幸せな気持ちに浸っていたりしていると、いつの間にか二度寝してしまっていた。次に目が覚めたら11時半だ。二度寝が長い。
布団から出て洗濯機を回す。身支度を済ませつつ、パンがないことを思い出す。おなかすいた。行ってみたかった近所のスコーン屋がいいかな、あそこ祝日は閉まってたかな、サントスでホットケーキ食べてもいい、いやでも、パンが食べたい、バターが染みたトーストがいい。よっしゃにしむら珈琲やな、にしむら珈琲一択。
洗濯物を干したり、掃除機をかけたりしていたらもう13時前になってしまった。おなかすいた。にしむら珈琲はまぁまぁ混んでいる。読んでいた文庫本を置いて、山型食パンが3等分されたトーストを食べる。カラシのきいたドレッシングがかかったサラダを食べる。お皿には目玉焼きが2つ、黄身をくずしてパンにつけながら食べる。そういえば私は、ハムエッグばかり選ぶので、ここではベーコンエッグを食べたことがない。次回はベーコンエッグにしよう、と思いつつ、でもたぶん次回は忘れている。
にしむら珈琲を出たら、明日食べるパンを買うためにイスズベーカリーへ行く。パンを食べるために出かけ、パンを買って帰るのだ。パンに支配された休日だ。カスクートとミートパイとチーズフランス、それからいつもの食パン、食パンは最近4枚切りを買っている。
ポイントカードが満杯になった(つぎ300円値引きしてもらえる)のでご機嫌で歩いていると生田神社を通りがかる。今年まだ初詣いってないねんよな、と中を覗き込むと、わりと空いている。あら、空いてんのかい、ほなちょっとご挨拶していこ。
そういえば生田神社は散歩がてらたまに来ることはあるけど、初詣は初めてなんじゃないかと思う。お賽銭を投げて手を合わせ「あけましておめでとうございます、タナカノゾミと申します、お世話になっております、元気です」と心の中で挨拶をする。手を合わせて何を思えばいいのか、年々分からない。突然「元気です」と言われても、困るだろうな。ごめんね。あとパン買ったついでに来てごめんね。細かいこと気にしないタイプの神様だと良いんだけど。
せっかく初詣に来たし、おみくじを引くぞ、と思ったらQRコードを読み込んで、ランダムに出る数字を見せる、という仕様になっていて笑った。非接触、という観点なのか、それとももっと前からこのシステムなんだろうか。だとしたらどういう理由なんだろう。
おみくじは大吉だった。私は23歳になるまで大吉しか引いたことがなかったので、初詣のおみくじは大吉が半数以上で、他のは申し訳程度にしか入っていないものなんだと思っていた。だから23歳の元旦、まだ日も登らない浅草寺で凶を引いたときびっくりした。凶って実在するの。字面がこわいし、響きもこわい、「きょう」ってこわい。私はその日、世の中にほんとうに「凶」と書いてあるおみくじがあること、年越しの瞬間にどこに誰といても別にこれといった感慨はないこと、このあと私たちはそれぞれの家に帰るけど、家にはおせちもお雑煮もないこと、そのすべてにびっくりした。以来、年末年始は毎年同じように実家に帰り、親戚一同でごはんを食べ、餅つきをし、叔父が打ってくれる蕎麦を食べ、家族と年を越すことにしている。惰性でもある、あるが、同じことを同じようにすることは、ほんとうは難しいことなのだと今はわかる。「当たり前のことは奇跡」とかって話じゃないよ、私がそんなJ-POPみたいなこと今さら言うわけないでしょう。いや、今もうそんなこと言うJ-POPは無いのか?
おみくじは大吉だったのでいいことしか書かれていない。たくさんの椿が咲くように良い1年になるぞ、朗らかに過ごせ、と書いてある。なるほど。ただし椿を維持する努力を惜しまず、種をまくことを心掛けよ、とも書いてある。ほほう。なぜニシーの年賀状と同じようなことを言うんだ。おみくじに占いの要素とか全然ないと思うんですけど…不思議だな。友だちなの?
神社を出たあとは、お気に入りのポッドキャスト「OVER THE SUN」を聴きながら、歩いて帰る。牛乳とチーズが切れているのを思い出し、スーパーに寄る。スーパーでは、ペットボトルの商品棚の前で少し困ったような顔をする男の子が、意を決したように変な色のファンタを手に取ったのがかわいかった。何味のファンタなんだろう。変な色。それおいしいの?
最近ファンタとかコーラとか、変な色の炭酸飲料を飲んでる人を見ると、反射的にかわいいな、と思ってしまう。テヒョンの影響かもしれない。
家に着くほんのちょっと前にポッドキャストが終わったので、手癖みたいにアナログフィッシュの「Yakisoba」をかける。なんにもいいことない、なんにもいいことなかった、いい日だった、と下岡晃が歌う。あぁ今日のことだ、と思いながら玄関の鍵を開ける。BTSのグリーティングカード、うちにはまだ届かないな。
のめわせ
2022年1月7日 (金) 21:37
友人のお誕生日祝いに何かおいしいものを食べようよと言ったら、気軽なフレンチがいいな、ということになった。ちょうど正月で実家にいたので「気軽なフレンチの店、どっかええとこ知らん?」と家族に聞いたところ、弟は「いや知らんわ、俺人生で“気軽なフレンチ”言うたことないわ」と言った。なんて非ロマンチックな弟なん…クリスマスのデートとかで行けや…と思ったけど、まぁ弟はそういうタイプじゃないか…というか世にロマンチックな男は私が思うより少ないんだと思う。弟に限った話ではない気がする。
「気軽なフレンチ」の「気軽な」について、定義は友人とすり合わせしていないので分からないが、たぶん金額的なことと、アラカルトのメニューがあること、それから店の雰囲気、を指すと思う。結果として選んだ店の金額はまぁまぁのものになったし、コースしかなかった。店の雰囲気はまだ行ってないので分からないが、写真で見る限りはわりと気軽そうに見える。少なくともドレスコードはないようだ。
予約のために電話すると、受付してくれた男性は物腰が柔らかく、フレンドリーだが踏み込みすぎない話し方をした。始めに名前を聞くのもスマートだなと思った。真似しようと思う。
お金は最初から私が全額払うつもりでいたので別に問題ないし、おいしいものや、それを作る人の技術や、気持ちよく過ごす時間に対してお金を使うのが好きだから全然構わないけど、人によっては引く値段かもしれない。私もまぁまぁ高ぇな~とは思っているがギリ引いてはいない。期待はしているが、正直レストランの類は実際に自分で行ってみないと分からないので、今のところなんとも言えん。
が、友人は引くかもしれない、というか逆に気を使うんじゃないかという気がする。そうなってくると私も気を使うし、自分が気を使ったことに対して私が気を使うことで友人はまたさらに気を使いそうだ。まずい。負の気づかいループに入ってしまう。ハッピーな未来が見えない。伝票を見せないようにしなければならない。
お金のことは価値観としか言いようがないのだな、と年々強く思う。例えば私は、10年前と比べると「特に目的はないけど一応しておくタイプの貯金」が出来るようになった。金銭的余裕の有無によるところもまぁあるけど、そもそも私は「理由もないのに貯金なんかしてどうするねん」と思っているのだ。今も基本的にはそう思っている。
が、歳を取るにつれて、良いことでも悪いことでも、単にお金があれば解決・回避できること、というのは一定数存在する、ということが分かるようになった。この先何があるかわからないけど、わからないから一応貯金するのだ。何もなきゃないで、それでいいし。
でも同じだけ、お金があったって何も解決できない、というシーンも間違いなく存在する。何億積んだって時間は買えないし、2分で売り切れたパジャマを翌日メルカリで見つけても、買う気にはならない。お金だけが問題じゃないんだな、というシーンは存在する。
つまりお金は多ければ多いほどそれで良い、全解決する、というものではないし、額面はどうあれ「どのように扱うか」ということのほうが本質なんじゃないだろうか。何にお金を払い、そのお金がどこからどのような形で私のところへ来たのかを自覚し、払ったお金がどこの誰に渡り、その先でどう使われるのかを見ている、見た上で稼いだり使ったり貯めたり増やしたりする、というのが大事なんじゃないかと思う。まぁ、今のところはそう思うだけで、また変わってくるだろうな。価値観て思ったほど固まってないものなんだな、というのもここ10年ぐらいで気づいたことのひとつだと思う。価値観なんてグニャグニャでグラグラ。
今確実だと思っていることのひとつは、例えば「ジャズをかけると生活のすべてが超イイカンジになる」というものだが、これもいつかグラグラと崩れるんだろうか。あぁ今日も、何にも確証がない。
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