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Ma City

2022年6月28日 (火) 21:40

uncategorized

駅前を中心に、再開発が続いている。あちこちで工事の音がして、私はこれによって生まれているであろう雇用について考える。そこで動く金銭について考える。私は「まち」について考える。考えながら、八百屋さんで山芋を買い、パン屋さんでチョココロネとたまごサンドを買う。薔薇が10本で500円か、買ってもいいけどな、でもあんまり元気そうじゃない薔薇だな。
それから、駅前にたくさんできた飲食店について考える。どこも普通においしいけど、基本的にしょっぱいんだよな、全部、まぁでもああいうとこは、お酒を飲ませないといけないからな。

私が「まち」と呼んでいるものの、サイズ感・規模感について考える。それは多分「丁」や「町」よりはだいぶ大きい。「区」よりも少し大きい。が、「市」よりは小さい。「市」は全く手に負えない感じがする、でかすぎて手に余る。つまり、「区」と「市」の間ぐらいのものを、私は「まち」と呼んでいるようだ。
あの大通りの向こうって何があるんですかね。何が、っつーかまぁ家とかビルとかあるんやろうけど。行ったことあるか?ないかも、あぁ美術館はたまに行くよ、だから美術館だけブツ切り。あのへんの海も良いよね、工業の海ね。わかる?工業の海、あとはビーチの海とか、漁業の海とか、輸出入の海とかあるやん。あ、でも神戸は工場の海はないかも。川崎みたいなやつ、ああいうのはないかも。

私が言う「まち」には北に山と南に海があり、好きな飲食店が十数件、実家と弟家族の家、友人の家、それから私のかわいい家と、会社がある。どこに何があり、そこへ行くのにどのくらいの時間がかかるかを知っている。電車は4本(いや5本あるか、でもあれはほとんど使わない)あり、間をバスが通る。自転車が走りやすい道はここ、歩くのが気持ちいい道はこっち。ボルゾイが2匹、夕方に散歩する道はあっち。

再開発を間近で見ていると、この「まち」がグネグネした、やわらかいものに見える。いつも使っていた道が使えない。こっちは通り抜けできなくなってる。文房具屋が移転してる、そっかこのビル取り壊すんだっけ。建物を壊したり、建てたり、道を作ったりしているんだから、そんなにすぐには終わらない。作業は大勢の手で、少しずつ進んでいる。お店だって一斉には閉店しない。少しずつ、閉まっていく。そっかこのビル取り壊すんだっけ。あっちを塞いだらこっちを空けて、人はこっちを通ってください、すみませんトラック通ります、ご協力ありがとうございます。
「まち」は今日もグニャグニャしている。生き物なんだな、と分かる。

数年後、ツルツルピカピカした建材が「まち」に溢れるのかと思うと、少し憂鬱な気持ちになる。私は「新しいものが良いものだ」とは思えない。新築マンションのデザインが気に入ったことは一度もないし、平屋の家が並ぶ古い町並みが好きだ、安いものを買って次々と買い替える生活は苦手だ。息が詰まる。昔はそうでもなかったのに、最近どんどん苦手になっている。理由とか根拠とかは全然ないから、単にそういう性格で、そういう好みなんだろう。でも私の好みや、気分とは関係なく、「まち」は変わっていく。そういうものなんだ、たぶん。私だってちょっとずつ変わってきた、変わらない部分もあるけど、でも変わったところもたくさんある。「まち」も同じなんだ、きっと。
でも今はここに住んでいるから、「まち」がどのように変わるのかを、私は見ることができる。グニャグニャグネグネしながら、「まち」は今日も少しずつ変わっている。そのことを、見ていようと思う。

ペゴパヨ

2022年6月23日 (木) 21:38

uncategorized

一泊10万円のラグジュアリーホテルに気負いなく泊まれるけど、カプセルホテルやホステルの2段ベッドにも躊躇いなく泊まれるような人生が良いな、と思っている。どっちにも良さがあるからだ。後者は慣れたものだが、前者はまだ当分難しいと思う。今まだ5万円ぐらいがいいせいぜいじゃないかな……いや5万円でも「えー5万もすんのか、寝るだけやのに?私が寝るだけの部屋に?」と騒ぐだろう。よその部屋でただ寝るだけなのに10万円出すとなると、相当気負う。とは言え、あらゆるものの値段は、常に比例しているわけでもないのだな、とも思う。

昼寝の短い間、スコンと落ちるように夢を見た。ただいまぁ~とドアを開けた先の部屋が自分の部屋でないことに驚き、と同時に、この部屋に見覚えがあることにも驚いた。これは、あそこだ、シャーロットの家。
シャーロットは私が両親とパリに旅行に行ったとき、家を貸してくれたドイツ人だ。研究職か何かで出張が多く、長く家を空けていることが多いらしい。アパートは石造りで古く、めちゃくちゃ私好みの家だった。フランス旅行はもう5年も前のことだ。
夢の中でシャーロットは、首にスカーフを巻きながら、自分は市場へ行ってくると言い、その間に出来ればあなたはコインランドリーへ行き、洗濯を済ませてくれないか、と言った。お、なんか、私はシャーロットと同居しているらしい。えへへ、うれしいな、良い夢ですね。
え、なんて?コインランドリー?あぁそうか、この家には洗濯機がなかった、コインランドリーは家を出て左、まっすぐ道沿いの左側だ、ガラス張りに青い看板、そうだったそうだった。
懐かしくて泣きそう、と思っていたら目が覚めた。懐かしくて泣きそう。

お昼に韓国料理を食べに行った。牛肉とえのきがたっぷり入ったスープと、副菜が2品付いている。大豆をごま油で和えてあるのと、もうひとつは切干大根かな、コチュジャンで甘辛い味、こういうおかずおいしいよね。名称がわからないが、まとめて「ナムル」呼びで良いんだろうか。たぶん韓国にも「副菜の鬼」みたいなオンマがいるんだろうな。うちの母ちゃんみたいなさ。
食べている間中、ずっとジミンと目が合う。なぜか目の前にポスターが貼ってあるのだ。ジミンは大真顔のキメキメでこちらを見つめてくるし(ポスターやからな)、私はごはんを食べるのをじっと見られることに慣れていないしで、妙に気まずい。BGMでかかっている「RunBTS」に集中しようとするが、なんだこれ、なんか、余計照れる。ジミン、かっこいいなぁ。アルバムがかかっているのかと思いきや、シャッフルでBTSだけをかけているらしい。ジミンのソロ曲「Filter」がかかりはじめ、いよいよマズい。いやマズいことない、ごはんおいしい。なにこれ、なんでこんな恥ずかしいの。せめて聴力をよそへ向けようと思い立ち、イヤフォンを出してマヂカルラブリーのラジオを聴く。あぁそうか、今週スペシャルウィークか、ZAZYがゲストか。って無理。集中できん。ううう。ジミン。まだ目が合う(ポスターやからな)。ジミン、かっこいいね。
結局目も耳も舌も、何も、何にも集中できないまま食事を終えた。帰り際、お店に入ってきたお客さんと店員さんの韓国語の会話がちゃんと聞き取れたことだけがうれしい。
以下、全文。
「暑いですねぇ」
「雨が止んだら、突然こんな晴れてきて、暑いですよ。えーと、メニューください」
「お水どうぞ」
「おなかすきましたよ」

日記(ひまわり、あじさい)

2022年6月22日 (水) 21:20

uncategorized

友人の配信を聞きながら、ベッドに寝転がって今年初めてのスイカバーを食べた。種を模したチョコレートは要らないが(食感的に邪魔じゃない?見た目はかわいいけど)、私はスイカバーが好きだ。皮を模した緑色の部分のアイスが特に好き。

弔いに正しい形など無く、それぞれが思う形の弔いをやるだけのことなんだな、と去年と同じことを思った。きっと何でもそうなんだろう、私にできることなんて、そう多くない。いつだって、選択と、弔いと、祝福くらいしかやることない。でもそれでいいんだろうな。少ないと嘆かなくていいんだ。

翌朝、私もお墓参りに行こうかな、と思ったが、先月行かせてもらったし、きっと今日はご家族やご友人がたくさん集まるのだろうし、その人たちのことを私は多分あまり知らないし、だから自分の存在がノイズになるようなことになったらそれは結構嫌だな、邪魔するようなことになったら嫌だな、と思ったのでやめにした。今日は映画館へ行くことにする。

元町映画館では「ひまわり」という、古いイタリア映画がかかっている。タイトルは知っていて、主演女優の名前も知っているが、観たことはない。昔、キムタクがドラマでこの映画のことを話すシーンがあって、それをなぜだかめちゃくちゃ覚えている。そういうのありませんか?なんか知らんけど超鮮明に記憶に残ってるシーン。

劇場内はほぼ満員だが、圧倒的におばあちゃんが多かった。50年以上前の映画やからかな……
以前ここに濱口竜介監督の「親密さ」を観に来たら、比較的高齢の男性が7〜8割を占めていて、それもおもしろかった。終映が23時すぎになる上映時間が4時間オーバーの作品だったことも関係するのだろうか。客層が如実に可視化されるとおもしろい。

上映ギリギリに席につき、折りたたみ傘を畳んでいたら、隣の席のおばあちゃんが「あら、雨降ってきちゃった?」と話しかけてくる。「はい、でもちょっとだけですよ、霧雨みたい感じ」と答えた。梅雨入りしてしまったので、いつでも折りたたみ傘を持ち歩くようにしているの、という話に「私もです、今は軽くて丈夫な折りたたみ傘がいっぱいありますもんね」と答えたあたりで、劇場が暗転した。

映画は夫が第二次世界大戦へ行き、その帰りを待つ妻の話だった。夫はシベリア侵攻で凍死しかけて記憶を失い、戦争が終わっても帰国しない。妻はロシアまで夫を探しに出かけるが、既に夫は現地で別の人と結婚、子どももいる。記憶を取り戻した夫はイタリアへ戻り「何もかも捨ててふたりで暮らそう」と言うが、そのころには妻も再婚していて子どももいて…みたいな。
劇場中のおばあちゃんたちが啜り泣いていて興味深かったが、私にはあまり刺さる脚本ではなかったし、ふたりの主人公には「しゃあないやん……」以外にかける言葉が浮かばなかった。悲しいし、めっちゃかわいそうやけど、でもしゃあないやん。悪いのは戦争だし、お互いや、お互いの家族の幸せを祈りながら、今後をやってくしか、もう無いやん。情緒もクソもない感想ですまない、でも私は悲恋映画を泣きながら観るような人間じゃないんだと思う。

私は年々「オッケー了解、んじゃどうする?」みたいな「やってく」力だけが強くなり、「かなしいね、つらいよね、分かるよ」と、ただ寄り添い癒すような能力が一向に身に付かない。その悲しさ・辛さを分かりたいと思うのに、分かるよと言ってあげたいのに、言った先から「お前にそんな経験いっこもないだろうが、分かるって具体的に何が?どのように分かるの?」と私の脳内人格が煽ってきてしんどいのだ。「まるで良い人みたいに振る舞ってるね!満足?良い人みたいに出来て満足??」とうるさい。なおかつ私は「悲しみはひとりでやるもの」だと思っているフシがある。悲しみは自分ひとりで、真正面から見て、両腕で抱える以外に、その大きさや形を捉えることは出来ないものだろうと、感覚的に思っているのだ。なぜそんなふうに思うのか、その理由はさっぱり分からないが。
一方の「んじゃどうする?」力があれば、時間をかけて話を聞くとか、聞いた話を整理するとか、物理的に何か手伝えることがあったり、わりといろんなことに対応できるんじゃないかと思う。アイデアもたくさん浮かぶし、何か行動したり変えていくために調べたり考えたりするのも好きだ。が、最低限相手側から「こうしたい」「最終的にはこうなりたい」などを発信してもらう必要があるので、それもどうなんだろうな……という気持ちがある。「こうしてほしい」と自力で分かるようになれる人は、そもそも私など必要としないからだ。うーーーーん。

映画の話からめっちゃ逸れた、戻す。

ソフィア・ローレンがただ家で泣き暮らして夫の帰りを待ってるんじゃなくて、役所へ出向いて調べたり、役人に堂々と抗議したり、義母を力強く励ましたり、ロシアへ行って自分で探したりしているのは良かった。こういう執念に身体が伴う感じ、すごく憧れがあります。

私は両隣りの席のすすり泣くおばあちゃんたちを連れてにしむら珈琲へ行き、なぜ泣いたのか、どのようなシーンで感情移入したのか、など、感想を聞く会を開催したかったが、ご時世的にも誉められないだろうし、大人しく帰ることにする。
ただ、戦争のシーンは本当にすごかった。戦後生まれの私は戦争のシーンなど絶対に撮れないだろう、なんの実感もなく、死を自分のものとして扱ったこともないのだから、と思った。想像力や取材でまかなえることももちろんあると思うが、戦争だけは別だ、という感じがする。分かったような顔すんなよ、と自分に思うが、そんなこと分からないまま死ぬのが、戦争を経験した人たちの願いなんじゃないか、とも思う。これも想像でしかないけど。

雨が上がっていたので、自転車で帰宅。帰り道に花屋さんで買ったあじさいがめちゃくちゃ立派で、色もかわいい。250円で5本は、もう実質タダじゃないですか?

夜は友人から電話。のっけから「大丈夫なん?活動休止なんやろ?活動休止ではないん?今どういう状況?大丈夫?」と言われて笑った。活動休止、のウェブニュースの見出しとリーダーが泣いているブツ切りの映像だけを見た人がどう感じるのか、ということについて知る。私は大丈夫だし、活動休止はしない、と順序だてて説明した。
聡明で、勤勉で、それゆえに優しいキム・ナムジュンに「正直になりたいという勇気は、やはりいつも不必要な誤解や憤りを招くような気がします」などと言わせたことが、ずっと頭から離れなくて悲しい。ぜったいにそんなことはない、と言い続けたいし、そのことをどうにかして証明したい。方法がまじで思い付かないが。友人とは2時間ほど近況を話して就寝。

寝る前から、うっすら体調が悪い。金曜に勢いでスクワットをしてから引き続き筋肉痛があるけど、なんか胃の調子も悪い。全身が怠い。なんだ、梅雨入りしたからかな、まぁ私はめちゃくちゃ湿度に弱いし、他に思い当たることが何も無いが…なんか変なもん食べた?……と思ったけど、生理だ。生理でした。全くもう……はー。
つーかスクワットは思いつきでやるんじゃなくて、定期的に一定量をやったほうが良いと、何回身をもって学べば気が済むんだ。いい加減にしなさい。

翌日、今日はゆっくりしよう、家事もしたいし。雨は降らないようなので洗濯し、掃除機をかけ、コートをサマリーポケットに送り、去年全く着なかった2着は処分することに決める。でもチェックのコートだけ2着になってしまうなぁ……今年の冬には無地のコートを1着買い足そうね。なんかクラシカルなやつがいいな。
友人に送るものがあるので、まとめて集荷に来てもらう。めちゃくちゃ助かる……宅配業者さんたち、いつも本当にありがとうございます。

いつも買う食パンが無かったので、仕方なく買った別の銘柄のパンが固い。おいしくないことはないけど、これじゃない。うーん、いつもの食パンが無いときは、他においしいパンはたくさんあるのだし、無理に食パンを買わないほうがいいな。これを教訓として生きます(大げさ)。

午後は歯のお医者へ行く。3か月に1回の定期健診で、歯は何事もなかった。歯医者さんがくれる歯ブラシが好きだな〜と思ったので、待合室でamazonにないか調べ、その場で30本入りを購入した。意外と安い。

帰ってきてから作ってあった魯肉飯を温めて食べた。魯肉飯のあのお肉の部分だけの名前ってないんかな。なんかあるやろ。「牛皿」のことを「牛丼」って呼んでいるような違和感がある。
魯肉飯はいつもバーミキュラのレシピを使っているけど、正直ちょっと油分を減らした方がおいしいと思うし、もう少しつゆだく感がほしい。自分で考えるしかないのだろうな。まぁそのうちやろう。

母に押し麦をもらっていたのを思い出し、麦ごはんを炊いてみた。麦ごはんておいしいよね、とろろごはん食べたいな、今度山芋を買ってこよう。
魯肉飯にいつものせる高菜漬けが家にないので、刻んだねぎキムチをのせて食べた。すごいおいしいけど、これはいったい何料理なんや。魯肉飯は台湾料理だが、ねぎキムチをのせると急に韓国料理っぽくなる。BTSを好きになるまで、私は韓国料理にはあまり興味がなかったし(基本的に辛いものがあまり好きじゃないから)、キムチは白菜ときゅうりと大根しか知らなかったけど、キムチはねぎもニラも大葉もあるのだ。ねぎキムチで作る豚キムチは、白菜よりもっとおいしい。

夜は先週本屋さんで買ってきたtofubeatsさんのエッセイを読んだ。日記のような、忘備録のようなものを書籍化した本らしいが、人柄が伝わってくる文章でグッときてしまう。人が書くもの、描くものはどうやったって人柄が出るのだな、と思う。しかし、すごいバランス感覚の良い人だな。理屈を突き詰めるところと、感性に任せるところのバランスがとても良い気がする。一見相反するような性質が、一個の身体に収まっている。ような気がする。知らんけど。

お腹も痛いので早めに寝た。生理ほど解約したいサブスクはこの世に無いと思う。
生活はつづく。

あんまり覚えてないや

2022年6月20日 (月) 21:36

uncategorized

「子どもはいないの?」「じゃあ一人暮らしなの?」と聞いてくるのは、大体が見ず知らずのおじさんか、見ず知らずのおばあちゃんか、それか子どもだ。少なくとも同年代の女性に聞かれたことはない気がする。性別・年代・ジェンダーなどによって、その質問のセンシティブさが異なるのだな、と思う。見ず知らずのおじさん・おばあちゃんは私を私としてではなく「結婚して子供がいるくらいの年齢の女性と思しき人間」くらいの記号として話している。それは憤りを感じるほどのことでもないし、私もきっと同じように、見ず知らずの人を記号として接しているシーンがあるのだろう。……やだな。こういうのって意識すれば直せるんだろうか。まぁ私が見ず知らずの人に話しかけるシーンなどほぼ発生せんけど。

「お子さんは?」「ご結婚は?」のあとに続けて「あらぁそうなの、孫を紹介したいわ~」と言ってくるおばあちゃんはわりと多い。が、孫がそのことを了承しているケースは絶対に無いと思う、確かめたことはないけど。まじ勝手なこと言うのやめなよ、私が森羅万象を真に受ける妖怪だったらどうする気なの。大切な孫を深い森に連れ去る妖怪かもしれんのに。
ま、社交的なおばあちゃんはかわいいと思うし、私もおしゃべりは嫌いじゃないし、あと妖怪じゃないし、そもそも本気で孫を紹介する気など初めからないのだから、一時の話のネタになるなら、それでいいのかもしれない。
こないだバス停でおしゃべりしていたおばあちゃんにも「おいくつなの?」「お子さんはいらっしゃるの?」「ご結婚は?」「孫紹介したいわ~」の4コンボをいただいたので、「ちなみにお孫さんおいくつなんですか?」と聞いたら「18よ、素直でいい子よ~」と言われて笑ってしまった。18の子を紹介されてどないしたらええねん、犯罪じゃないのか、頑張ったら産める年齢やぞ。とは言え、18歳にして「素直でいい子」と祖母に言わしめる孫、きっとほんとにいい子なんでしょうね。「ふつーに彼女おるやろ」と言いかけてやめ、「じゃあこの春から大学生ですか?将来がたのしみですねぇ」と言うに留めた。

友人の子どもに「家に子どもはいるの?」「じゃあひとりぐらしなの?」「ひとりなの?ずっと?」「さびしいときないの?」と聞かれたときは、少し答えに詰まった。相手は子どもなのだから「さびしくないよ~」と簡単に言ってしまえばよかったのかもしれないが、そう出来なかった。「さびしくないの?」ではなく「さびしいときないの?」と聞かれたからだ。

一人暮らしはさびしくない。気楽で楽しいし、性に合っている。そのうえ私はさびしさを軽視しない主義なので、さびしさの訴えを無視したり、さびしさを無下に扱ったりしてこなかった。必要なら私の休日を丸一日さびしさに差し出して、ふたりきりで過ごすことも厭わなかった。さびしさに全力で構ってあげられる時間的余裕があることも、一人暮らしの強みと言えるかもしれない。
まぁ、手懐けたとは思ってないけど、つーか「手懐けた」とか言うとさびしさはご機嫌を損ねるでしょう。あの人そういうとこあるよね(あの人?)。

彼の質問は「さびしくないの?」ではなく「さびしいときないの?」だ、これに「ない」とは答えられない。だって、さびしいとき、あるもんな。ずっとじゃないけど。でも有無を問われてるんだから。「さびしいときないの?」か……なんて秀逸な質問……いや、言い間違えただけかもしれんけど。

私は「さびしいときはあるよ、時々な」と答えた。すると「そういうときどうするの?」と返された。うーん、これまた良い質問だな……
「そういうときはさびしいなぁ~と思ってるよ、今日は、さびしい日やなぁって」「それだけ~?どっか遊んだりしないの?誰か遊んだり」「まぁそういう日もあるけど、でもさびしい日は何したってさびしいからさ」「ふーん」

この子にもきっと、特に理由などないのに「さびしいとき」があるんだろう、私と同じように、そしてそういうときは「どっか遊んだり」、「誰か遊んだり」するんだろう。誰かから「さびしさ」を取り出して見せ、その小さい手に載せられたことなどなくても、自分の「さびしさ」がどんなものか、ちゃんと知っているのだ。そしてそういうときは、どうすればさびしくなくなるのか、この子はこの子自身の経験として、知っているのだ。すごいことだな。めちゃくちゃすごい。

そしていつか、この子も気づくんだろうか。この「さびしさ」は自分だけのもので、同じ名前を付けたから同じものだと錯覚してしまうけど、人のそれとは全然ちがうものだと、知る日が来るんだろうか。
そのときまた、「さびしさ」の話ができたらいいのにな、と思う。

we gon’ change

2022年6月17日 (金) 21:37

uncategorized

言葉の意味を調べていたらネット上に納得のいかない語釈があり、どうしても腑に落ちないので図書館へ行った。図書館には複数の出版社の辞典があり、国語辞典だけでも十数冊は置いてあった。ありがたい。図書館てありがたいよね。
新しい言葉ではないので、正直どれにでも載っているだろうと思ったが、せっかくこんなにたくさんあるのだ、全部の辞書で調べよう。持てる量を両手に抱えて自習席と書棚を3~4回往復し、辞書を引いてはメモを取った。ほら、やっぱり、ネットに書いてあるのは間違いやん。よかった。そうやんな。

雨の降る中、バスに乗って帰宅していると、ふいに「なぜネットに書いてあるのが間違いで、紙の辞書が正しいと信じ切れるの?」と、脳内の左うしろあたりから声がした。
…え、なに?なんて?もっかい言うて。ごめん今、ちょっと韓国語のアプリやってたから。聞いてなかった。もっかい言うて。
「だからさ、なんでネットに書いてあることが間違いで、紙の辞書は正しいって、信じられるの?逆かもしれないと、なぜ思わないの?」
それは、難しい話だ。でも紙の辞書に書いてあることは私が思っているのと一致していたから、だから、正しいと思ったの、合ってるな~って。それに、1冊じゃなくて、置いてあるの全部引いたけど、でも全部おんなじ意味の語釈が載ってたよ。インターネットで見つけた記事は2つあって、誰かぜんぜん知らない人が、自分の名前も出さずに書いたものだったし。
でも待てよ。辞書を書いた人だって、全員、よく知らない人だな。三省堂が出している辞書だから、は根拠になり得るのか?でも岩波の辞書にも同じ意味の語釈があったよ、さっき見たもん、え?これ根拠にならないの?

辞書に限らず、今信じているもの、そういうものだと根拠なく納得しているものは、本当はいつか突然根本からひっくり返ったり、ジワジワ時をかけて崩れたりするようなものなのかもしれない。
つーか言葉を使う人間が少しずつ入れ替わってるのに、言葉の意味だけは永遠に変わらないなんて、そんなわけないよな。概念だって少しずつ変わっていくし。
だから信じられるものは何もない!!!みたいな極端な話じゃなくて、その足元は今も動いているし、あらゆるものごとは、いつだって変化の途中であることを、忘れずに見ていたいな、と思った。

#無い記憶

2022年6月15日 (水) 22:33

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テヒョンは「(雨降ってきたから)駅まで迎えにきてくれん?」って電話したら、傘もささずにビーサンで来る(と思う ※妄想)。
私は「いや傘2本持ってきて、って意味やん…わかるやろ…」「ほんでなんでビーサンなん」て呆れて笑うけど、テヒョンは悪びれる様子もなく、むしろちょっとウキウキしながら「でも気持ちいい雨だよ」とか「お風呂わかしてからきたんだよ、帰ったらすぐ入れるんだよ」とか言う(と思う ※妄想)。
はーーーめっちゃかわいい、許す。確かにしとしと降る雨に濡れるのって、気持ちいいもんな。これから出かけるってときは嫌やけどさ、でも今は家に帰るだけやし、濡れてもべつにえっか。しかもお風呂わかしてきてくれたんや、えらいなぁ、めっちゃ気ぃきくやん、ありがとうテヒョンア。洗濯物は?洗濯物も入れてくれた?あ、洗濯物はそのままか、ははは。いやいいよいいよ、明日は晴れるから、洗いなおすから、大丈夫やで。お風呂あがったら何食べよっか?雨やからパジョンにしよかな、テヒョンひっくり返すの上手やん。

という旨のツイートをした(※だいぶ妄想を加筆している)途端、あれ、これなんか、こういう詩があった気がする、何やっけ、とムズムズする。家にある詩集数冊をめくってみるも、それらしきものは見つからなかった。うーーームズムズする。詩じゃないのか……?でも歌詞とかじゃない気がする、歌詞ならメロディーぐらい思い出すはず。

記憶にあるキーワードを曖昧に羅列してGoogle検索すると、案外早く正解にたどり着いた。検索エンジンってすごい。短歌だった。そうだそうだ。思い出した。
引用して良いんだろうか、でも出版社のウェブサイトに載ってるから良いかな。リンクもしておきます。

雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって
『木曜日』盛田志保子/書肆侃侃房

「来やがって」の部分、めちゃくちゃ良いよなぁ。これ、文字数とか無視してまだ続けるとしたら「来やがって…ほんまそういうとこやで」みたいな感じだろう。「ほんまそういうとこやで」も実は省略されている。正確には「ほんまそういうとこ、あんたのおもろいとこやな」とか、「ほんまそういうとこが好きやで」とかになるはず。はずだが、短歌はその余韻や気配、視線を残して「来やがって」と終わるのだ。かっこいいなぁ。

そういえばこれ、作者の方の妹のことを書いた短歌だったんじゃなかったか。傘もささずに裸足で迎えにくる妹、いいね。どんな子だろうな。

マニュアル読んでから来い

2022年6月15日 (水) 22:16

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新宿末廣亭が経営難だ、とのことでクラウドファンディングのお知らせを見たので入金した。いつから出てたんやろ、気づかんかった、悪いことしたな。
少額で申し訳ないとは思うが「お前の生活が回らなくなっても構わないから有り金を全部出してくれ」と末廣亭が言うとも思えないから、これで良いのだ。もし今後、有り金全部出すぞ!という気持ちになったら、もちろんその時はそうすればいいとは思っている。

私には、年に何度か「私には何もできない、誰も幸せにできないし誰も救えない」と気分が落ち込み、ベッドやソファーから動けなくなるという、持病(?)がある。いや、厳密には「あった」。最近はほとんど出ないし、出そうな時がなんとなく分かるようになってきて、多少の対策が打てることが増えた。30年生きてようやくこんな感じかよ~と思うけど、まぁでも今世はこの感じで行くんやろうな~しゃあない人生初めてやし、とも思う。

どうしようもなく落ち込むとき、何か原因になる出来事がある場合も、何も無い場合もある。何も無い場合の方が厄介だ。少し風邪と似ている。風邪も原因はかなり曖昧じゃないですか……?
罹ったらあとはあたたかくして、消化のいいものを食べ、安静にする。咳や鼻水が出るようなら、それは悪いものなので出し尽くした方が良いし、人にうつるかもしれないので、可能ならひとりで完治させた方が良い。寝不足だったり仕事が忙しかったりすると免疫力が落ちてかかりやすいところも、風邪に似ている。

原因になる出来事は、多くが「私の手に及ばない(及ぶはずもない)こと」だ。たとえば天災とか。
とはいえ私が1日中涙を流しても地震は起きるし、泣きすぎて鼻から鉄のにおいがしていても津波は来るし、カーテンを開けられない部屋でうずくまっていても戦争は終わらない。もう知っている。

クラウドファンディングという手段が選択肢として世の中に浸透したことは、私の病いに少なからず良い影響を与えていると思う。好きな映画監督が撮りたい映画にいくらかかるのか足りない金額を教えてくれて、そのうち(ほんの少しの割合いでしかないにせよ)いくらかのお金を私が支払うことが出来るのは、精神衛生上とても良い。他にも、好きな映画館が「経営が厳しい」と言ってくれたり、好きな建築物が「改修の費用が捻出できそうにない」と言ってくれたりする。その状況自体はとても悲しいが、でもいつのまにか閉館してしまっているよりは、ずっと良い。閉館を考える原因はお金だけで、運営をしていきたいという気持ちがあるのなら、それは解決できることだと思えるからだ。天災も戦争もクラウドファンディングではどうにもできないが、どうにかできることだって存在する。その方法が、私や私と似た考えの人たちがお金を出す、というものなら、それで解決すればいいのだ。私はいつだって大した額が出せないが、それでも「あの映画館がつぶれちゃった、好きだったのに」とか「あの建物が取り壊されちゃう、もう二度と行けない」とか思う途方もない無力感からは解放される。

が、例えば震災の義援金を振り込んでいるときの、あの「金だけ振り込んどけばいいと思ってんのか?」と言ってくる脳内人格(?)は今もまだずっと居て、すぐ意地悪なことを言う。あいつ何なの、なんであんな嫌なヤツなの、といつも思う。どうにか殺せるんじゃないかと考える日もあったが、難しいだろう。理由はすごく簡単だ、肉体的にひとつだから。うーん、それは、ちょっと、私には出来ないな。
殺せないなら共に生きるしかないので、私は「そうは思ってないよ、ただ出来る範囲の出来ることを出来るときにやろうと思うだけだよ」となるべく穏やかに言い返す。脳内人格は性悪の意地悪なので「へぇそう、ぜんっぜん、何の解決にもなってないけど、いいの?分かってるよね?え、もしかして分かってないの!?」としつこいが、こういうのは相手にしないに限る。私は「ほなお前には何が分かんねん」とわめきたくなるのをグッとこらえる。ふふん、毎度その手に乗ると思うなよ。そして「うん、いいのいいの、解決はまた、別の話やねん」と言い、これ以上あなたと話すつもりはありませんよ、の意志を込めて一瞥し、この話を終わりにする。あとはもう、それとは一切目を合わさず「晩ごはん何しようかなぁ~茄子と豚肉をポン酢でジュワワと炒めたやつ食べたいな、ビールも飲もうっと!はー今日もよく働いたな~えらかった~」などと言っていればよい。

払いたかったら払ってくれてもいいねんで

2022年6月13日 (月) 20:03

uncategorized

姉が仕事の都合で帰省したので、両親と4人で食事しに行った。

姉は甥たちにも久しぶりに会ったようだが、甥にまだ叔母という概念はないらしく「のんちゃんのおともだち」と呼ばれたらしい。おともだちじゃないのよ、お姉ちゃんだよ。とは言え、姉が私の姉になってから33年と半年、その半分以上を確かに「おともだち」のように過ごしてきたな、とも思う。だから、あながち間違いじゃない。というか4歳はたぶん「叔母」とか分からないんだよな。こういうの習うんやっけ?学校とかで?それとも急に気づくのかな。

4人でごはんを食べてお酒を飲み、くだらない話(観る気なかったのにジュラシックパーク観てる間中ずっと電話してた、どんだけ蛸食べんねん、えっジョン・ファブローの映画やで絶対観たことあるはずや、いやもう徳利カラやん見たら分かるやん、そもそも酒盗ってなんなん、どんだけ蛸好きやねん、私の中の若手お笑い芸人はロバートで止まってる、そんなことするからそんなことになんねん、こがけんはまじでめっちゃ歌うまい、玉ねぎ高い理由なんなん今調べて、等々)をしていると、ふいに良い家に生まれてきてよかったな、と思った。この人たちと特に理由もなく一緒にいられるなんて、私は幸運だ。もちろん人間だから全員に良いところも嫌なところも、いろんな側面があるし、歳も取ったから性格も悪癖もソリッドになるけど、だからこそ、血はつながっているかもしれないが別の人間だということを何度も思い返し、いつでも対話をすることが大事だと思う。でもそれ以上に「いつでも対話が出来る」と思える人間だということ自体が、めちゃくちゃ稀有なことなんだろうな。長年に渡って家族をやっているから、慣れや勘でまかなえることが多いけど、それでも「これはちゃんと話さんと分からんやろうな」ということもあるし、でもそういう時に「まぁ話せば分かるやろ(同意してもらえるかどうかは別として、意図や意思は理解してもらえるだろう、の意)」と思えるの、本当はすごいことなんだろうな。
なぜそれが可能なのか、については正直分からないし「まじでただの運」としか言いようがない気もする。自分には一切なんの努力も無かったか、と言われるとそんなこたぁないが、じゃあすべて自らの努力によって得たものか、と言われるとそれもまた違うと感じる。
運が良いだけのことを、どのように処理すればいいのかは、ずっと分からない。「神に感謝する」とか全然しっくりこんしなぁ。「私は強運だと言い募る」のもなんか…だから何やねんとしか言いようがないし……
「親ガチャ」という言葉は嫌いなので使いたくないが(だってそれ言うてもうたら子ガチャも自動的に発生してしまうやん、双方めっちゃ嫌な言葉)そうとしか言いようがない、という感覚も理解できる。でもそもそも社会の構造とかでどうにか出来る部分も多いんじゃないんか、こういうのどうやっていけばいいんやろ、教育の分野っぽいと思うけど、そっち現場も手薄でそれどころじゃなさそうやし上も全然取り組んでる気配無い気がする……で、結局各ご家庭でどうぞ!はい頑張って!てなってるんかな。あぁそりゃあ「ガチャ」扱いしたくもなるか。

とかナントカ考えて坂を上っていたら家に着いた。夜は涼しくて、風も気持ちいい。イヤフォンから「I’m a born singer」と歌い出すジョングクさんの声に「いやほんまそうよ、歌声が既にそう言うてるもんな」と言いながら玄関のドアを開け、キッチンで立ったまま冷蔵庫で冷やしてあった蕎麦茶を飲んだ。

whenever you want

2022年6月8日 (水) 21:49

uncategorized

推しがいると人生が楽しい。好きなバンドや、好きな映画監督や、好きな作家や、好きな画家はこれまでも大勢いたし、アイドルなら嵐も長いこと大好きだったけど(今も大好きだが)、推しか?と言われるとちょっと……「いや、推しっていうか、ただ、好きやねん」て感じだったのだが、この1年で「なるほど推しってのはこういうことなのだワ」と深く理解した。推しにはいつも幸せでいてほしいし、おいしいもの食べて、しっかり寝て、健康でいてほしいし、好きなことをやって、毎日楽しく暮らしてほしい。つーかアイドルってこういうことなんだな、想うだけで背筋が伸びるような、私も善くありたい、優しくありたいと思わせてくれるような、そのために自分が何をすればいいか考えさせてくれるような、目の前の「あとすこし」を頑張れるような、そういう。
「恋」が近いのかと思っていたが、むしろ近いのは「信仰」なんじゃないですかね。「恋」はだって、もっとグロテスクな部分もあるからさ。……え、私だけ?

推しがいると、人の推しに対しても、同じように優しい気持ちになる。先日、推しの写真をラテに食用インクでプリントしてくれるカフェに行ったのだが、列で待っているあいだ、いろんな人の推し写真を見て、その曲を聴いていたら、ふわんとあたたかい気持ちになった。誰の推しもみな素敵だな、と思うし、どんな人なのか、どんなところが好きなのか聞かせてほしくなるし、かわいいね!かっこいいね!素敵だね!と言いたくなる。
とは言えラテは飲み物なので最終的には推しの顔面にストローをブッ刺して混ぜるというマッドイベントが発生し、あれはなかなか辛いものがあった。「ジンくんごめん、でも、飲み物やから、混ぜなどうしようもないから、あああ…ごめんジンくん、でも飲み物やねんもん…!」などと騒いでいたら友人が「言い聞かせてるwww」と言って笑ってくれた。くまちゃんのケーキとか、パンダの肉まんとか、ひよこまんじゅうとかは全然躊躇なく食べられる(だって食べ物やから)けど、推しの顔面が印刷された苺ラテはかなり厳しい。めっちゃかなしい。しかも「え、飲む気なん?ストローを?刺して?俺の顔に?マジ?」みたいな目で見てくるから……!(幻覚)私はジンくんのあの、こっちを見てるのに全然目が合ってる感じがせん目が、すごい好きなんです。伝わるかな。あの、なんかピントがあまいねん、常に。そしてその儚げな外見からすると意外なくらい、無頓着で、わりと大雑把で、生活能力が高くて、照れ屋さんで、たくさん食べてよく眠り、よく笑うところが好き。

とはいえ、推しがいると好きすぎてIQが下がり、コンテンツの過剰摂取で睡眠不足になる。BTSは今カムバ(新曲+アルバムが出る)とフェスタ(デビューの周年イベント)のコンテンツが同時発生していて、あまりの供給量にむしろ疲れている。疲れているのにグクちゃんが「今日キャンプ来てるねん~お酒ちょっと飲んだ!気分いい!えへへ」などとバカかわいい生配信を始めたりするので更に疲れる。贅沢な疲れですよね、ほんとうにありがとうございます。こんなんまともに追ってたら寝る時間はなくなり「あああかわいいかっこいいだいすき」しか言えなくなる。IQが下がってひらがなしか使えない。
が、この期間に向けてどれだけ時間をかけて準備してくれたのか、たくさん練習してくれたんだろうな、と思うと「あああかわいいかっこいいだいすき」しか言えないなんて不甲斐なさすぎる。夜はしっかり寝て、適度に運動し、栄養バランスの良いものをよく噛んで食べ、家を清潔にし、語彙を増やして漢字も使えるように、私は健康で文化的に生活していかないといけない。
結果、推しがいることは健康にも良い気がする。推しがいることのデメリットが何も思いつかない。お金がかかる、はデメリットかもしれんけど、でも生きてるだけでもお金はかかるしなぁ。あと全然お金かけずに推すことも、不可能ではないからね、無料コンテンツがいっぱいあるし。まぁ是非は別として。

というわけで、推しは人生を良くしてくれるし、健康に良いです。アルバム発売日まであと2日!

Werther

2022年6月7日 (火) 21:48

uncategorized

義妹と少しゆっくり話す機会があったので、前から思っていたことを伝えてみたら「でも家庭内ではいろんなことが極端な話になりがち、そうせざるを得ないことが多い」という返答を得て、さみしかった。さみしいが、でも彼女がそう言うならそうなんだろうな、と思うし、それなら私はたださみしがってるんじゃなくて、どうすれば自分がさみしくならずに済むのかを考えて、何か行動を起こさないとな、とも思う。

なんでこんなに頼りにされないのがさみしいんだろうな、身近な人や大切に思っている人に頼られないとしんどい。必要とされてないんじゃないかと思うと、ただ怖い。
が、これは私が頼るのがあまり上手じゃないことの裏返しなのかもしれない、とも思う。その上「頼る」は具体的ではないし定型もないし、物理的でない場合もある。そりゃ難しいわな~!
あとは「頼ってほしい」と思うこの感情の何割かに「あなたが先にそうしてくれないと私はあなたを頼りに出来ない」を含んでいる。私はそのことに気づいている、が、なぜそう思うのか、についてはまだ考えている最中である。ざっと4年ぐらい、考えている。ま、明確に答えが出るものとは思っていないので、ボチボチやるでな。

さて、甥スカイウォーカーたちを昼寝させるとき、絵本を読むことがあるが、大抵「のりものずかん」みたいなものをチョイスされるので困っている。図鑑を読み聞かせるってどういう概念……???
甥たちは新幹線や電車、はたらく車が大好きなので、その類の図鑑がいくつかあるが、図鑑は絵本ではないし小説でもエッセイでもないので、ほとんど読むところがない。本来の目的は1時間半~2時間程度昼寝をさせることであって読み聞かせはオプションなので、私は機械的に「東北新幹線、東京から新青森を運行」とか「はやぶさ、最高時速300km」とかのキャプション部分を読み上げながら15分程度過ごす。
もうちょっと「いわゆる絵本」っぽいやつが何冊かあればなぁ。新幹線がかっこいいと思うことは素敵なことだが、それでも人生には物語が必要なんじゃないかと思う。何がいいだろね、みんな子どものころ、なんの絵本が好きでした?私は「14匹のねずみ」シリーズと「ゆかいなゆうびんやさんのクリスマス」とか……そういえば昔好きだった男は長新太さんの絵本が好きだったな。

でも人生には物語が必要だ、と思わない人もいるんだよな、正直私には理解できないけど、でもそういう人もいる。ここではないどこか、を欲さず、私ではない私を探さずとも、生きていける人も、いる。不思議だな。
私はこのさき死ぬまでずっと物語が必要だ。ここではないどこかへ旅立つためにも、私ではない私を探すためにも、今いる場所を私以外の目で見るためにも、ずっと、たくさん、物語が要る。こんなに確信めいた気持ち、他にないと思うけどな。
それともいつか、物語が必要なくなる日が来るんだろうか。そのとき私はどんな顔をして、何を考えているんだろうな。それをぜひ知りたい。と思うこの感情すら物語じゃないのか。

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